握り締めた指が白くなる。

 通っている感覚がしない。

『どーしゅー』

 くるくると旋回しながら、水色が先ほどから言っている単語を叫んでいる。

 ドウシュ、というのが僕、ということは、今までの会話から分かる。

 でも、それは何なんだろう。

 白くなってしまった指を眺めて、僕は思案する。他ごとを考えていなければ、気が狂いそうだった。

 丁度目の前にいた水色を捕まえて、なにするんだー、という声に被せて問う。

「ドウシュって何?」

『君の事でしょー?』

「だから」

『獣王の協力者、って意味だよ。導く主、って人間の言葉だと書くんじゃない?』

 黒がそういって、赤を集めて字にしてくれた。

 読んでもらった本に書いてあった言葉のようにも思える。

 読めるかー? という黒の問いに、僕はちょっと、と答えた。

 見たことはあるけれど、ばんっ、と出されたら答えれる自信はない。

『どーしゅは協力者! 獣王のつながりなんだよー』

『導主が居なかったら、獣王は干渉できないしな』

『器とか、頭悪すぎだな。気にすんなよー! 導主!』

『貴方を“器”と称す奴らは、愚かとしか言いようが無い。獣王は思っているはずがないのに』

『ねー! 獣王はそんな事思わないよ!』

 彼らなりに慰めてくれているらしい。

 泣いているに近い笑みを浮かべて、それから片隅に残った言葉を反芻する。

『獣、王?』

 目頭に溜まった粒を拭う。

 微かに濡れた掌を見ながら、何処か聞き覚えのある呼称を頭の中で探した。何処で、だっけ。

 そのうちに、灯篭の周りに居た赤いのが僕の近くに来て、そいつは暖かかったからそれだけで頬が乾いてしまって、それから僕の耳元で言うのだ。

『獣王は、麒麟様の事』

 被さるようにして、水色が。

『神獣たちのおーさま』

『そこにいる、麒麟さまだよ!』

「居る……?」

 気付かなかった。

 あまりに密やかすぎて。

 水色が辿っていくのを視線で追いかける。

 まず目に入ったのは、極めて金色に近い黄色の毛並み。

 触ったらふわふわして気持ち良さそうだ。場にそぐわず、そんな事を思った。

 それは、ゆったりと寝そべっていて、周りをくるくると回っている精霊達の会話を、目を閉じて聞いているように見えた。良く目を凝らせば、近くには入れたはずも無いのに、何故か獣が数匹いて、あぁ、これが神獣なんだ、と納得した。

 水色が何事かを、彼の耳に囁いた。

 静かに開けられたその目は、老成された光を宿していて、かつ僕には眠そうに見えた。

「お初にお目にかかる」

 龍、という顔をしているのに、彼は人の言葉を喋った。

 後に、何年も生きていれば、嫌でも覚えるさ、といわれたけれど、その時は凄くびっくりしたんだ。

 考えてみれば、精霊達もそうなんだけど。

 当時の僕にとっては、獣の顔なのに人間の言葉喋ってるー! という感覚だったのだ。きっと。

「我は麒麟。獣王とも呼ばれているが、まぁ、些末なことだろう」

 透き通った黄色が、シルフの動きに合わせてなびいた。

 現実世界にいるのに、さっきと変わらない場所にいるのに、何故かそこだけ浮世離れしているように感じた。

 絵本の中で見た麒麟が。

 二百年に一度しか現れないという麒麟が。

 目の前に居る。

 事実として、とっくの昔に受け入れていたはずなのに、当の本人の姿が目の前にあるとなると、僕の頭はちょっとだけこんがらがっているようだった。

 僕の声を待つように、彼は僕の目を見ている。

 押し出されるようにして、僕の喉が震えた。

「きりん……」

「いかにも、我が協力者」

 こうべをたれるかのように、片足をおってみせる、彼。

 協力者――。

 三百年に一度、彼は始祖ユリアとの約定どおり人を見守るために、誰かと契約するという。

 それが、僕。

 今回の契約者、協力者は僕、なんだ。

 そう知覚した途端、夢心地だった僕の頭の中が一気に醒めた。

 さっき聞いた声が僕の心を揺さぶり返す。

 ――道具。

 ――器。

 ――僕の責務。

 思い浮かぶのは、父上、母上、それから大人の顔。

 羨ましい、恨めしい、そんな負の感情を纏った声達。

 瞬間、喉が熱くなった。

 涸れかかっていた涙も、またじわりと滲む。

どうかしたのか? と麒麟が問いかけてくれる前に、僕は麒麟に向かって叫んでいた。

「何で、僕を……。僕を選んだんだ……っ」

「何故、とは?」

 困惑した声音。

 歓迎されることはあっても、こんな事を吐いた契約者が過去に居なかったせいかもしれない。

 彼は、ただ困惑していた。

「僕は、僕は……。めいよなんて、せきむなんて……、欲しくなかった……っ!」

「名誉? 責務? 我との契約で、お前さんにそれがかかるのか?」

「父上が! 母上が! ……誰かが言ってたんだ」

 不思議そうに、そんな事を言う当の本人に腹がたった。でも、彼は首を捻るのみ。

「それは、知らなかった。三百年前とは勝手が違うのだな……。しかし、それはおかしいだろう」

「おかしい?」

「我は王などと呼ばれるが、そのような地位などない。ただの神獣の一つだ。お前さんが、数ある人間の中の一つであるように」

 静かに、彼は言った。淡々と彼の中の事実を。

 麒麟の言葉は難しくなくって、理解することは出来た。

 でも、僕は首を振った。

「……麒麟はそう思ってても。――皆は、そう思ってくれないんだ。父上も、絶対に僕をそうとしか見ないよ」

 事実、父上が言っているのを聞いてしまった。

 もう一度、自分で再確認したら、また悲しく、寂しくなって、止め処なく涙が溢れ、乾いたはずの頬をまた濡らした。

 赤いのが寄って来たけど、手で振り払う。

『導主……?』

 心配そうな声があってさらに泣きそうになる。

 でも、止まってくれない。止まらないんだ。

「道具扱いされる、力なら、いらない、よ」

 感情がぐるぐると渦巻いて、爆発しかけた途端、頭の中に膨大な声が入り込んできた。黒がしまった、って言ったのを耳が拾った。

 頭が割れそう、と思うほどの情報が飛び込んでくる。

 急に重くなった頭を動かして、周りを見渡せば、うああああ! と叫んだ精霊達が外から大量のモノをくっつけてやってくるのが見えた。

 

――栄誉。

 ――麒麟は富の象徴。

 ――絶対の繁栄。

 ――頂点。

 ――選ばれし者。

 ――解除。

 ――国力増強。

 ――瑞兆。

 ――契約者の責務。

 ――ただの徒となれ。  

 

流れさればいいのに、一つ一つが形となって残っていく。

 栄誉って何。

 父上が言っていた誇らしい、っていってた事?

 何。

 何を言ってるの。

 男の声が、女の声が。いずれにしても大人の声が僕の頭を蹂躙する。

 ぶつかってくる精霊達が大量で、そのたびに僕の身体は悲鳴を上げだす。

『導主のちからああああ』

『おちついてえええええええ』

『力暴走してるよおおおお』

 水色達も苦しそうに叫んでいる。

 暴走、って何。

 僕が、何を。

何が。

 何を、どうしろと。

 さっきまで静かで、こいつらが現れるまでは、僕以外だれも居なかった部屋が、凄く騒がしくなってきている。

 頭が麻痺していたせいで気付かなかったけど、これは僕にとって“非日常”だった。

 さっきまでの僕だったら、こんなものは見えていなかった。

昨日までの世界が崩れていく。

 屋敷内の声が、鮮明に耳へと届く。

 聞きたくなかった声が届いてしまう。

「やめて――っ!!!」

 掠れた声で嘆願する。

 もう、たくさんだ。

 ――さっきまでの声が嘘のように静まった。

 頭の中に留まっていた声達も消え、水色達の声だけとなる。

 はぁ、はぁ、という、自分の荒い息使いを聞きながら、僕はまた泣きそうになった。

……これが、契約のあかし?

 僕が、やった結果?

 荒い息の中で僕は吐息と一緒に呟いた。聞こえないくらい小さな声で。

「何で、……選んだ、の……? こんな風にやっちゃうのに」

 案の定、麒麟は拾っていた。

 シルフが伝えたのかもしれない。

 彼は大仰にため息をついて見せた。

「それは、あんまりだ。お前さんの力は、眠っていた私を起こしたのだぞ? もう少し寝ようとしてたんだが、起こされたんだ」

 溜まりかねたように、玉達が同調する。

『そうだよ! 導主。ボクら毎日、側にいたんだからね!』

『君の側は心地がいいからな』

『安心する。お前の側は』

 ほれみよ、と麒麟が首で指す。

「見えていなかっただけで、お前さんの近くには、引き寄せられるモノたちがいた。我もその一人だがな」

「……僕は……そんな……」

「ふむ。“導主”と呼ばれるのは伊達じゃないのだがな」

 力なく首を振る僕を見て、麒麟が饒舌に説明を始めた。

「よいか。我らは、契約者を通して、こちら側の世界に干渉できる。お前さんは、我を通して、あちら側の世界に干渉している。実感はないだろうが」

 麒麟の話は正直良く分からなかった。

 あちら側、とか、こちら側、とか。

 分かったのは、僕の力は凄いんだぞ、と麒麟が言いたいらしい、って事。

「力なき者は、あちら側の世界など、垣間見る事すら出来ん。だが、お前さんの世界はどうだ? 今はどんな世界が見える?」

 僕が見たままを伝えれば、麒麟が嬉しそうな顔をした。

 獣顔なのに、なんで分かったんだろう。

 今でもそれは不思議。見慣れた今なら分かるだろうけど、その時の僕はどうかしてたのだろうか。

 ともかく、麒麟は、嬉しそうだった。多分、目を細めて、そんな雰囲気を出してたんだろう。

「その世界は、我らの世界と同値。そのように見えるのはお前さんの力が強い証拠だ。先ほども、風の幼子に干渉していただろう」

 そんな言葉を受けても、僕は相変わらずの思考回路だった。

「……じゃあ、その力が無かったら」

 麒麟はそんな僕に苦笑の雰囲気を漂わせ、それから首を振った。

「それは分からん」

「え」

「我は、お前さんが気に入った。結局はそれだけだ」

 優しい目をして彼は僕を見つめる。

 その目が直視できなかった。

「麒麟」

「なんだ?」

「麒麟が気に入らなかったら、僕はどうなってたかな?」

 僕はすごく無様な顔をしてたんだろう。

 ためらうように麒麟は、身じろぎし、それから、僕が触ったら気持ちいいんだろうな、と思ったその毛を、僕に擦り付けてくる。

 本当にふわふわしてて、不思議と暖かかった。

 ……なんで、冷たいとか思ってたんだろうね。

 それから、麒麟は僕の足元で言う。

「その時にならなくては分からないだろう。我は神ではない」

「僕よりは賢いでしょ?」

「生きてきた年数が違うからな。――ただ、それだけだ」

 立ち上がって、僕から離れて、正面に立った。

「導主と言われても、人は人。お前さんは、お前さんだ」

「……っ。父上は……」

「その父上とやらは、お前さんを決め付ける物体ではない。お前さんはその物体に操られてるわけではないだろう」

「それに、我は、お前さんに繁栄をもたらすものでもない」

 僕は答えなかった。

 麒麟がもたらしたもの。

 それが、僕にとっては、嫌なものばかりだったからだ。

 想定の範囲だったらしく、麒麟は何もその事について言ってこなかった。

 それから、ふっ、と雰囲気を緩めて。

「だから、慎よ。寄り添うだけで良い。我の繋がりで居てくれ」

 ふっ、と消えたかと思うと、彼は、僕の隣で丸くなっていた。

 なんて、穏やかそうな。

「……こいつの、せいなのに」

 いつの間にか言葉が溢れていた。

 さっきの、感情がぐるぐるとしていたのとは全く違う。

 水色が僕の隣に来て、猛然と抗議しだす。

『違うよ、導主!』

『王は悪くないぞ!』

 黒がその隣で止めていた。

『やめとけよ』

『だって!』

『獣王悪く無いじゃん!』

『……こいつだって分かってるよ』

 そうだ。

 分かってた。

 麒麟が、周りの精霊も、何にも悪くないってことなんて。

 とっくの昔に分かってて、僕が今日聞いた声の中で、一番澄んでたなんて。

 そんな事。

 とっくに。

 けど、どうしようもない。

 何処にぶつけていいのか、どうやって押さえこんだらいいのかが、さっぱりで。

 彼にぶつけるしかなくなる。

「言い返せばいいのに」

 本当にそうだ。

 黙って聞いて、真剣に返して、勝手な事言って。

「うああああああ――っ!!!」

 何だか、その事を考えるだけで、憎たらしくて、悲しくて、寂しかった。

 僕は、もう、彼を憎むしか、出来ない。

 ――心の奥底では、全く憎んで無くても。

 

 夜は明けた。

 でも、僕の夜は明けない。
 
 きっと、掴んだ灯火を、叩きつけるように捨ててしまったからだ。

 僕のは、何時、明けるかは、分からない。

 一生明けないかもしれない。

 この時の僕は、そう、思った。

 ――明けなくても、良い。
 
 そうとも思った。

 

 

 

 





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