彩芽のお父さんは、厳つい顔をさらに厳しくさせて、くるりと元の方へと戻っていく。 多分、着いて来い、ってな事なんだと思う。 少し緊張してきた。 ちらりと振り返ってきた彼が、彫士の方がもう来ています、と言った。 遠まわしに、早くしてください、と伝えてくる。 はい、と短く返事をすれば、彼は少しだけ相好を崩した。僕が近くまで駆けて来るのを待っていてくれて、彼を見上げると、ごつごつとしたその手で、意外なほど優しい手つきで撫でてくれた。 彩芽がこの厳しそうなお父さんを、言うほどには嫌ってない、むしろ好いてる訳が分かったような気がした。 「行きましょう」 「はい、彩芽の父さん」 ちょっと硬くなってしまうけど、それは仕方ないことだと思って欲しいな。 先導してくれる大きな背中を追いかける。 僕が潔斎していた小屋は儀式をやる所からは、ちょっとだけ離れているらしい。 無事に外に出れたらしい彩芽と雪芽が裏口の方に居て、隠れて手を振っていた。 僕も、彼に気づかれないように小さく振った。 両脇に橘と桜が植えてある道を通りぬける。母上が見たら詰まんない光景、って良いそうだなぁ、って考えながら。 道を抜けると、玉砂利がひいてある広場があって、中心には初老の男の人が胡坐をかいて座っていた。隣には道具が置いてあって、あぁ、あれで彫るんだ、と他人事のように思った。 これから自分がやられるというのに、何故か現実味が無かったのだ。 彫士の人の周りには、陣らしきものが引いてあって、これも継承の儀の特徴なのだという。万が一暴走した時に、力が放出しないように、っていう。 その陣を取り囲んでいた大人達の中から、一人の男、父上が僕の所に歩いてくる。 母上といえば、にっこりと笑って僕を見ていた。 ……絶対、彩芽との会話聞いてた……。 ――楽しかった? しるふさんで伝えてきた。 追い討ちだよ……。 微妙な顔をしてみせても、母上は笑みを深くするだけだった。 小さな声で母上に返信しようとしていた所で、父上が目の前に立った。 額にはそれほど暑くも無いのに汗が滲んでいて、顔が強張っていた。 僕よりも何か緊張してる。 心配してくれてるのかな? 現実味をまだ感じてない僕はそうとしか受け取らない。 「慎、用意は良いか?」 「うん、大丈夫だよ。父上」 「じゃ、じゃあ、あの彫士の方の所に行くんだ」 「はーい」 素直に従って、初老の男のとこにと進む。 胡坐をかき、目を瞑っていたその人が目を開けた。 観察するように僕をまじまじと見て、嘆息した。 「まだ、ほんの子供じゃないか……」 「おじさん?」 言ってる意味が良く分からない。 母上の言うみたいに速い、ってことかな。 「坊主、何歳だい?」 「六歳!」 「数えで?」 僕が分からなくて沈黙していると、言い方を変えて問うてきた。 「いつ六歳になった?」 「誕生日!」 「……親も酷だねぇ」 よっこいせ、と彼は隣に置いてあった道具を引き寄せる。 「坊主、陣の中心に座りな」 「うん!」 彼が指し示した中心にと座る。 僕とこの人の会話を聞いていた人が泡を食ったような顔をしていたのが見えた。 不敬とか、そんな感じの事を言ってたけど、言葉が難しくて僕には理解できない。怒ってる、ってことと、男の人が気付きながらも無視してる、ってことは分かったけど。 気が進まないな。 そうぽつりと漏らした後、彼はようやく仕事道具を取り出した。 彫士。 皆そう呼ぶ。 だから、彼が筆を取り出した時に、思わず僕は怪訝な顔をしてしまったのだ。 針とかじゃないの? 首を捻る。 けど、周りの皆が不思議そうな顔をしてないから、可笑しくないことなんだろう。きっと。 「まぁ、最初は痛くないから硬くなるなよ」 知らないうちに緊張していたらしい。 硬くなった身体を驚いて見れば、彫士の人は苦笑いで僕を見下ろした。 と言われても、どうやって力を抜いていいのかが分からない。 とりあえず彼の前に腕を持っていき、それから深く息を吐いた。 何かをやろうとしているときに、いつも母上がやっていた事。これをやれば、少し落ち着くのよ、と言っていた気がする。 多少は力が抜けてたらしい。 彼は、よしよし、と満足そうに笑うと、僕の腕を取って、その筆で何かを書く。 「く、くすぐ――」 ふにゃふにゃしたモノが僕の肌を通る。 くすぐったくて思わず声をあげそうになったら、大きな手が僕の口を塞いだ。 また外野が煩くなる。 意外な程真剣な顔で彼は僕の目を見た。 「集中しろ」 「くすぐったいんだもん……」 彼は自らが持っている筆を目にやり、僕にまた視線を戻すと、苦いものを食べたような顔で僕に言うのだ。 「今は、な」 「今、は?」 なら、後は。 ……痛いんだ。 すっ、と笑みが退いていくのが分かった。 そうだ、なに思ってたんだろう。 この程度で終わるはずがなかったのに。 「麒麟との同調はどんなのかは俺は知らない。彫りもまだ終ってないぞ。……いいな」 「わかった……」 僕は頷いた。 彼は作業を再開する。 くすぐったいその筆も今回は笑えるようなものじゃなかった。 細かい作業。 父上、母上、芹、他の大人達の腕にあるものよりも細かいその文様。 これが麒麟なんだ、ちょっとだけ感心した。 不意に彫士が、ぼそりと言った。 外野には聞こえない大きさの声で。 「悪いな」 「なにがー?」 「外野の立場なら、辞めろ、って言うんだがな」 いまひとつ分からない。 「どういうこと?」 「それだけ麒麟の契約はすげぇ、って事だ。俺も文献でしか読んだことないがな」 それから、笑ってるのに、笑ってない顔で。 ――後から考えれば、アレは自嘲だったんだろう。 僕に言うのだ。 「俺も仕事だからな。暮らすには、この仕事を請けなけりゃならんし、坊主のために、と思って断ることもできん」 「だめなの?」 「だめじゃないさ。俺にとってはいいこと尽くめさ」 俺にとっては。 彼はそこを強調した。 どうせわからんだろうから、頭に止めておいてくれ。せめての手向けだ。 作業を止めないまま、彼は僕の耳に言葉を載せていく。 「麒麟は重いぞ。目の色を変える連中だって出てくる。それ以前に、この契約は絶対に痛い。“彫る”時点で痛いだろうからな」 彼の言うとおりよく分からない。 彫る、というのは今の時点じゃないのか、重いってなんなのか。唯一わかるのは、この麒麟の契約が、ここまでのような緩いものじゃない、ってことだけど。 それでも、やっぱり聞いとかなきゃ、っていうものを感じさせる何かを、彼は発していた。 頭の中に留めておけ、というならその通りにしよう。 何でかは説明できないけど、僕はそう思ったんだ。 「他の精霊と契約するとのではまるっきり違う。お前は背負うものを背負っちまった。覚悟がないなら、作れ。そうじゃなきゃ背負えない代物だぞ。――坊主は王と契約するんだからな」 「神獣の?」 「これは知ってたか」 「皆が言ってた。凄いことなんだよ、って」 「……お気楽だな」 今度の笑みは良く分からなかった。 彼の筆は何も塗っていないのに、何故か何かを塗られているような感覚があって、凄く不思議だった。 腕には精巧な文様が薄くあって、でもまだ彫られていないらしい。 円の中に全ての文様を書き終わった後、彼は、おっと、と声を上げ、円の外にまた文様を書き出す。 ごつごつとした手なのに、こんな綺麗な、小さなものを生み出すんだ、とちょっとだけ面白く思った。言ったら怒られそうだから言わないけど。 全ての工程が終り、彼は筆をようやく置いた。 これからが本番。 ごくりとツバを飲み込んだ。 これまでは“痛くない”作業。 この後は“痛い”作業。 強張った僕の顔を見て、今度は固くなるな、とは言わなかった。 「叫べ、泣け。押し込むなよ。かっこ悪いことじゃない」 吐き出せという。 それこそかっこ悪いことじゃ。 「これはやっても弱虫とかじゃないからな」 彼は、僕が丁度思ったところをぐっさりとさし、それから僕の腕に自らの手を置いた。 親指を噛む。 血が一筋流れでる。 「……いいな?」 数呼吸後に僕が頷くと、彼はその親指を、先ほど書いた場所に押し当てた。 文様が光りだす。 そして――。 「っ――!! うああああああああああ!!!」 世界が弾けた。 |
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