深く思考の海に沈んでいた慎も、反射的に上を見る。 ただの枝達のみ。けれど、彼が言ってるのはその上の事。 『うあああ!』 『ドーシュごめんん!』 「水色?」 慎から離れて漂っていたシルフが、ごっそりと上に飛んで行った。 磁石にひきつけられるように。 「……な…に……?」 母以上の実力者じゃなければ、こんなこと起こりえないのに。 異様な光景に慎の顔が引き攣る。 ――慎! さっさと飛び降りて、邸に戻るんだ。 大鷲の焦れたような声。 はっ、となり、慎は飛び降りようとするが、飛び降りれるような高さではない。 『ボクらがやるよ!』 シルフが慎の周りをかこう。 慎の顔が更に引き攣った。――恐怖と、嫌悪で。 「……やめ、て……っ」 浮遊がぴたりととまる。 水色はそれでも必死に言い募る。 『でもでも! 大鷲の兄さんが!』 『なんか、つよいのがいるんだよ! おかしいもん!』 『シルフの。落ち着かんか!』 慎の目はきっぱりと拒否をあらわしている。 飛び降りるのは諦めたのか、律儀に緑を隣にどかせた後、幹にと掴まる。 下がっていくが、そのつど、小さなでっぱりが出る。 「……おばば」 『緊急事態じゃえ?』 人型のまま、彼女はひょいひょいと枝を渡っていく。時折、慎に指示をし、安全かつ素早く降りれるよう先導する。 慎が半分まで降りてきたあたりで、急にその足が止まった。 『……風の童?』 大量のシルフが慎の足に絡み付いていた。 「……離して」 『うー、むりー。いまはね、みんなのお願いなのー』 『ばっか! ドウシュだよ! なにやってるの!』 『でもねー』 『ドウシュ! いっぱい人いるよ! はやくはやく!』 「足動かない」 『あぁああ! もう! みんなどいてえええ!』 そんな騒々しい中。 緑が、ついっ、と上に視線を向けた。 小さく発光しだした手を不快気に見つめ、口角をあげた。 『私を制御下に置こうとするか。人間よ』 「おばば……?」 騒がしいシルフの声の中に、一つの拍手の音が聞こえる。 緑が額の皺を一つ増やす。険が増す。 慎も気付き、はっ、と前を見やる。 大量の風、そして光。 一度口を開き、躊躇うようにしてまた閉じたが、前を見てもう一度開いた。 「……そこのシルフ、どいてくれる? 後ろの人、みたいんだ」 『えー、でも』 「おねがい。……あぁ、リヒトもね」 微かにいた光の精霊にも声をかける。 表情は相変わらず、硬い。 ゆらり、と空間が揺らぐ。 退いていった光と風の精霊の後ろには、真紅の衣を纏った男が、一人。更に後ろに、同じような男が4人控えていた。 拍手をしていた男は一番前の人か。 緑は相変わらず、その男を少女の姿のまま、険しい顔で睨みつけている。 艶やかな長い黒髪を旋毛あたりで結ったその男は、風でその髪を揺らしながらも、ふっ、と笑みを浮かべていた。 「流石、千年の時を生きる樹精殿。簡単には干渉はさせてくれないと見える」 『……お主のような小童に、私が操れるとおもってけえ?』 「失礼、樹精殿。私は、貴女様を侮っていたようだ」 優雅に一礼してみせる男は、二十代の前半ほどの齢だろうか。 立ち振る舞いが一々様になっていて、よほど厳しく礼儀作法を叩き込まれたのだろう、と簡単に推測できる。 ――どこかの上流貴族だ。 慎は確信していた。 だが、どこの家の者かは残念ながら分からない。父親か母親ならば分かったかもしれないが、成人を迎えていない慎は、貴族の会合というものに参加する資格がまだないのである。……そういう席を好まないので、ありがたい、とおもっているのは事実だが。 でも、自分の事は知られているだろう。 “麒麟”と契約した紅一門の“慎”というのは、何処にでも出回っている事実。シルフと契約している者だったら、慎の顔などは簡単に割れる。静がどれだけ規制をしていても、だ。 分からないのはそこだ。 ――貴族だったら、気位高いはずなのに。 こんな、盗賊や、誘拐犯みたいな、低俗な真似こそ嫌うはずなのに。 足を下げようとして、はたと気付く。 シルフが固まっているという事を。 「……何、ですか」 幸い、口元は止められていない。唯一動く口を使って問いかける。 かの人は、ゆっくりと、緑から慎にと向き直る。 真っ赤な目。燃えるような赤だ。 大仰に一礼してみせた彼は、こう名乗る。 「申し遅れました。私は、蘇芳の一門の末席に位置するもの。――紅の御曹司殿、我が主が貴方を招きたいとの事を伝えにきました」 『招き、かえ?』 「……本当にご丁寧なお招きですね」 あぁ、彼らはきっと、昔の誘拐犯と同じだ。 慎はすでに勘付いていた。 横では、シルフが、指示をちょうだい! と叫んでいる。多分するのが一番いいんだろう。 けれども、彼は指示をは呟かず、ただ皮肉気に表情を歪めた。 蘇芳の彼の笑みは崩れない。 自らの優位性を知っているからか。 逆に、後ろに控えていた者達は、明らかに不快気である。 「麒麟の契約者が、干渉をろくにしない、という噂は本当だったか。ふがいない」 「……貴方にどうこう言われる筋合いはないと思いますが?」 「ふん。勤めを忘れる小僧がいきあがるなよ」 慎が目を細める。 つい、と唇を弓なりにすると、ふんぞりかえっている男に問いかけた。 「知ってますか?」 「何がだ? へなちょこ御曹司」 怒りを誘う、男の言葉。 されど、慎は何も感じない。そんなありふれた言葉など、とうの昔に聞き飽きていた。表情なんて変える余地がどこにあるだろうか。 「――そういうのをお節介って言うんです。貴方にされる心配など気色悪いなんて通り過ぎて、吐き気を催します」 本当に気持ち悪そうな顔である。 隣では緑が爆笑だ。 言われた男も呆気に取られている。まさか、誘拐を試みている、この年端もいかない少年にこんな事を言われるなんて、思ってもみなかったのだろう。 しかし、脳内にその言葉を染み渡らせれば、湧いてくるのは、相手に出そうとしていた怒りである。真紅に近いその目を怒りで滾らせ、身動きの取れない慎に向かって、炎の精霊を使わす。 「……っ」 熱い塊が、慎に当たる。悲鳴こそ漏らさないが、唇をかみ締める。 「――栖羽」 「あはははは! みたか? 玖清。麒麟の契約者ともあろう奴が、四散すら出来ないんだぞ? 笑える話だ」 「やめるんだ、栖羽!」 咎める声が挑発の男、玖清から発せられる。 が、彼の声が止まったのは玖清の言葉だからではなかった。 「……ひっ……」 酷く、冷めた目で彼を慎は見ていた。十四の少年が見せるような目ではない。 殺気でもない、怒気でもない。そんな“生易しい”モノ、とは、彼には感じれなかった。 ――飲み込まれる。 彼は、そう思った。 小さな悲鳴が漏れる。 慎が、興味を失って視線を外すまで、彼は動く事ができなかった。理由も分からない、恐怖のせいで。 「……で? これが、貴方がたの迎えの仕方? 蘇芳の名が泣くんじゃないの?」 「栖羽が失礼致しました」 玖清は、何ともいえない顔だ。 これを抱えていいのか、そんな疑問をもちさえしていた。主の命令があるにも関わらずだ。 一方の慎は慎で、彼らに対する興味を失いかけていた。 どうにもこうにも、今までの奴らと変わりがなかったからである。 清々しいくらい、代わり映えがなかった。 そして、彼らが何故一方的に浚っていかなかったのも、大体の予測がつけていた。 “お誘いした”という体裁を整えたかった、と。 ――腐ってもお貴族様だなぁ。 無駄に焦っているシルフ達を眺め、緑が蔓をゆらゆらと動かしながらも、先ほどの男の足元に括りつけているのを可笑しく思いながら、慎は苦笑を浮かべた あくまでも、見栄えや世間体を気にし、失敗した時に自分の方へ火の粉が及ばないようにする。 身内である、紅と何も変わらないじゃないか。 「……厭きたから帰して欲しいんですけど」 ため息混じりに慎が告げると、玖清は目を丸くし、やはり苦笑を浮かべた。 「随分と落ち着いていらっしゃる」 「大変使い古された茶番を演じてもらったから。――それに、この手の事はもう厭きたんだよ」 取り繕うのさえ面倒になったのか、敬語を取り払った慎は欠伸さえ浮かべている。 先ほど浮かべていた緊張感は皆無だ。周りのシルフが焦るほどに。 「それでも、私達は来てもらうように命じられています」 「でも僕は行きたくないな。今日、甘露煮がでるはずだから」 「では」 彼の口が、ごめんなさい、と動く。 読み取った、慎の近くにいたシルフが動くが、遅い。 「力づくでも、というのが主の命令です」 不自然な体勢で慎が固まっている。四肢がシルフによって固められているのだ。 さらに、口は動いてはいるが、音の精霊によって、音声を封じられている。 大鷲がそれを吹き飛ばそうとするが、彼にはそれが許されていない。 人間、という媒介が無ければ、彼らは“理”の元でしか動けない。――精霊王が決めた、唯一絶対の法の通りにしか。 自由に遊泳することは理のうち。けれども、今この場で、突風を起こす、という行為はその外にあたるから出来ないのだ。 大鷲が、シルフが叫ぶ。 『慎! 望め! 望めば俺達が干渉できる!』 『しーん! 今はキンキューだよ! 干渉じゃないの!』 慎がのぞみさえすれば、場は出来る。彼らが動ける場所がおきるのだ。場とは、言うなれば治外法権の場。理の通りに動かなくて良い場所である。 彼らは、獣王、麒麟を場として集まったモノだから、直接、慎と契約はしていない。いつも、彼らが慎に干渉できるのは、麒麟が場を提供してくれているからであり、――慎が絶対に嫌な顔をするから、彼らは一言もそんな事を言わないけれど――無意識のうちに、慎が麒麟と同調していて、彼自身も場になってくれているからである。だから、慎が拒否をすれば、その場で彼らは干渉できなくなってしまう。 今の状況もその通りである。慎が、完全に使う事を拒否をしている。 そして何より。 ――獣王が、何故かここにいなかった。 「……諦めて下さい」 玖清が言うのを、慎は眉根を寄せる事で答えた。 ……望めない。 望めるはずが無かった。 ここが木の上だろうが、目を瞑れば、すぐに思い出してしまう、あの情景。……できるはずがない。出来たら苦労しない。 だから、彼は泣きそうな笑みを浮かべるしかできなかった。 四肢に力を入れる。 これまでだって、自分の力でどうにかしてきた。……だから、これも、“頼らず”にやるのだ。 けれど、ひ弱な人間の力で、精霊の拘束が解けるはずがない。 「お連れする」 自分の体が、シュバルツ――闇の精霊に包まれていく。 ふわりと浮かんだ感覚が、シルフに浮かされているのだ、という事実を彼に与える。 『慎!』 「……一人の人間にそこまで干渉するとは驚きです、大鷲殿」 『黙れよ、人間。あれは、俺の気に入りだ。――王の宿り子に手を出すつもりか』 「さて、どうでしょうか。それは主が決めること。……行くぞ」 意識が閉ざされていく。 微かに動いた手が、大鷲の方へと向かう。 だが、それまでだ。 “慎”という媒介を失って、どうすることも出来ずにいる、緑や、水色、大鷲の声が聞こえる。 伸ばした手は届かずに。 消えていった慎が最後に見せたのは、自嘲の笑み。
――いつも、忘れていく。 |
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