砂利が敷き詰められた道を彼は歩いていた。 飛び出してきた手前なので、当然供の者もおらず、時々彼に付いて来る従者、芹の姿もここには無い。 目的地は決まっているのか、その足取りには迷いは無かった。 『あー、しずかだぁー』 『ほんとだ、しずかだー』 『静? なんであいつ?』 慎の周りをふわふわと浮いている水色と、茶色が、上空の静を見つけて、不思議そうな声をあげていた。 彼もそれにつられて上を向く。 確かに、静らしき人影が空中遊泳を楽しんでいる雰囲気を醸し出しながら、ゆったりと上空を歩いているのが目視できた。慎が興味を持った事に気づいたのか、気の利かせたシルフが慎に映像を持ってくると、彼はちょっとだけ戸惑った顔をして、避けるように顔を逸らしたけれども、好奇心は押さえられなかったのか結局は映像を受け入れた。 慎の足が止まる。 ついで、一歩下がる。 「おこ、ってる」 どんな恐ろしい顔を見たのだろうか。 彼女に叱られた記憶は、ここの所全くもって無かったが、それでも直ぐに分かった。 かなり、あの母は怒っている。 先ほど見た、衝撃を受けて悲しそうに悔しそうに顔を歪めていた表情とは、今の表情はまるっきり異なっていた。 空中遊泳をしている様は凄く楽しげなのに、その顔は何だ。差異が、恐怖感をさらに煽りたて、ぽつんと染みのように疑問を浮き上がらせた。 誰に、何を怒っているのだろう。 慎は疑問に思ったが、よく考えてみれば、彼女があそこまで怒る原因と言ったら限られている。 その場に居た人。夫か、分家の大人達だ。 きっと、彼女の逆鱗に触れる何かを彼らは口にしてしまったのだろうと、慎は推測し、思考を打ち切った。 ――考えても仕方がないことだ。 首を振って思考を断ち切る。 断ち切ろうとした矢先に、あの場に居た人間の中に良く知った人が居た事を思い出して、彼は再度首を振った。 「……芹、か」 飛び出してきた足は、使用人がいつも出してくる綺麗な下駄とは違って、履きなれている薄汚れた足袋を通している。そうして、自然と大きな木の生える広場へと動いていた。 彼は、家から逃げ出したいとき、気持ちを落ち着かせたい時には、いつもそこへと足を運んでいた。奇しくも、慎が芹に暴言を吐いてしまったと今でも思っている、あの場所に。 『芹いたねぇー』 『同調、上手くなったよね。静が誉めてた』 『強くなったねー』 精霊達の言う通り、彼は大人達に混じって、あの大広間に残っていた。 あまりよろしくない雰囲気で、居心地なんぞ良くなかったはずで、しかも彼は残る義務も何もないというのに、何故かあの場所にいた。 慎が大人達に向かって激昂していた場面でも、息こそ呑んでいたが、目は何かを悲しむような、そんな色を浮かべていて、大人達のように、あからさまな怯えは一切みせなかった。 きっと彼は、慎が弱音を彼に向けていたのなら、何も言わず全てを聞いてくれ、それから一緒に考えてくれるのだろう。その事実は、存分に、めいいっぱい慎は理解していたけれど、そう簡単に慎は心の内を曝け出すという事は出来ない所まできていた。 頭で理解をしていても、心が拒否する。 (難儀だなぁ……) 自らに苦笑を向ける。 どうしようも無かった。 少し冷たい風が慎の頬を掠める。 夏の季節なのに、と思って少し視線をずらせば、近くの水辺にいたウィンディーネとシルフが協力して慎に涼しい風を送ってくれたらしい。 無邪気な好意に慎は苦笑して、自分でも素直じゃないなぁ、と思いながらも、小さく頭を下げた。 それだけで彼らには十分だった。きゃーっ、と、子供のような声をあげて、また元の所へと帰っていく。 ありがたいのに、素直には受け止められない。 多くの事柄の積み重ねが、慎の動きを止めさせている。 「……信じない」 暗示の言葉。 小さな頃から、六つを数え麒麟と契約を結んだあの日から、幾度となく呟いてきた暗示の言葉。 道端に転がっていた小石を蹴りながら、もう一度呟いた。 「信じないんだ」 呟くたびに、慎が苦しそうな顔をして、精霊達はその表情が心配で寄ってくるのだけれど、彼は受け取らない。受け取れない。 申し訳ない、という気持ちも片隅にはあって、素直に受け取ろうと試みる動きだって彼の中には存在する。 ……形が伴えないだけで。 謝罪の言葉が出てきかけて、彼はぐっ、と息を飲み込んだ。 何に謝るつもりだ、と自嘲して。 「受け取ったって、信じれない癖に」 好意を悪意と勘ぐって。 善意ある行動、慰めを、なんの策略かと思い疑う。 ――麒麟の契約者、って以外にお前に何の価値があるんだ? お坊ちゃんよ。 過去の悪意が、彼の中に巣食う。 そいつは嗤っていた。 慎が足掻く様を見て。 ――いい加減諦めちまえよ、お坊ちゃん。価値があるだけましだろ? ま、俺らが興味あるのは、お坊ちゃんの中身だけどな。 麒麟無しで、お前に何が出来るのだと、そう言っていた。 「……何が」 周りの精霊達が寄ってくるのも、神獣達が興味深そうに見てくるのも、全ては麒麟の力が彼に入っているから。 そう信じて、慎は疑わない。 実際には、彼が麒麟を受け入れるだけの力と、精霊や神獣を寄せ付ける引力を持っているという事も、因子の一つして存在はしていたが、彼は欠片ほどもそうとは思ってはいない。 彼にとって、精霊や神獣と言う存在は、ただ麒麟にくっついて来ている、という認識でしかなく、自分に力があるという事実は、お世辞としか思っていなかったのだ。 目的の広場へと入る。 相変わらずそこには人が居らず、ただ大きな木が鎮座しているのみ。 『手伝う?』 『運ぶ?』 慎が巨木に手を置くと、シルフがわらわらと集まってきて、ふわりと慎を浮かせたが、いつもの通り彼が小さく首を振ると、ちぇーっ、などと言いながらも彼の身体を下に下ろした。 一番上を見上げ、それから目の前の幹にしがみ付く。 ちょっとずつ彼が一番手前の枝に進んでいると、上の方にいた緑色の玉が彼の頭の上にのった。 『また何時もの小童?』 「……うん。お邪魔します」 『好きにせえ』 そのまま、緑は言葉を発さず、慎の頭の上にて沈黙した。 重さはないので邪魔にはならないのだが、落とさないかどうかが心配で、慎はちょっとだけ止まったのだが、察した緑が、「一丁前に心配けえ? 年輪が百を超えてから出直せえ」と鼻で笑ったので、慎はもう何も気にせず登る事にした。 『早くなったねー』 彼の周りをふわふわと浮いていた水色が、感心したように周りの水色に言っていた。 『だよねー。芹の助け貰ってないもんねー』 『力もついたよね』 『筋力? も、ついたんじゃない?』 『てこずってはいるみたいだがの』 『でも、楠のおばば。最初よりは凄くなったでしょー!』 『どうかねえ』 はぐらかす緑色ではあったが、慎がいつもとは違う一本目の枝にたどり着き、そこからどう登るか検討していると、丁寧に教えているのである。 『そこから右に枝があるだろう?』 「あれ?」 今日は精霊との会話を自重しないことにしたらしい。 多少顔は顰めてたりするものの、緑の言葉を素直に聞いている。彼女? が、慎の事を導主扱いしないことも原因ではあるが。 『わかるかえ? なら、あそこに右手をのせて引っ張りあげえ。足場はそこの洞だ』 「分かった」 こくりと一つ頷くと、背伸びをして言われた通りの枝に手を伸ばし、洞へ足を掛ける。 「……う」 微妙に身長が足らないらしい。 洞から背伸びをして手を伸ばしてはみるが、指が掠る程度で、指を引っ掛けるには至らない。 手伝いたくてうずうずしていたシルフ達が嬉々として慎の周りをぐるぐると回る。 『ドーシュー。手伝うー』 『浮かせるよー』 『一気にいっちゃう?』 慎は答えない。 さらに背伸びをして届かないか、どうやったら届くか悪戦苦闘している。 彼の頭の上で、緑がため息をついた。 そして、どこからともなく蔦を出現させると、ふわふわ浮いている水色達に一撃をお見舞いしてやる。 『風のわっぱ共、少しだまりい?』 『うええ! おばば?』 『童もやっとろうに』 届かないことを悟った慎は、今足を掛けている洞よりも少し高い所にある出っ張りに足を掛けようとしている。 『童、左手を凹みに掛けぇ』 「ん」 これでこちら側の登り方の要領を得たのか、もう緑の助言を当てにすることはなく、すいすいと登っていく。 途中に苔があったりすると、ドーシュー、気をつけてねー! とシルフ達は言うが、手伝うなんてことは口にはしなかった。 ……緑の攻撃が案外痛かったらしい。 真ん中あたりまで来ると、慎はようやく枝にと腰を下ろした。 それでも、結構な高さではあるが。 『今日は上にはいかないんかい?』 「今日はね」 『めっずらしー』 「いつも上に行くわけじゃないよ。降りるの大変だし」 『だから、ボクらがやるって』 「却下。気持ちだけもらっとくよ」 えぇえー! と不本意そうに叫ぶシルフを掌にのせて、慎は突っついた。 これが実体なわけではないが、麒麟の契約している慎にとっては、視えて触れる存在なので、少し強めにつっつけば、ひんやりとした触感とともに、シルフのふざけた悲鳴があがる。 『うあああー、ドーシュが苛めるぅう!』 「もっと突っついて欲しいって事?」 『そんなこと頼んでない!』 「冗談だよ」 『遊ばれとるじゃないか、風の小童』 上空に放ってあげれば、一変して笑い声となる。 本当に幼子のようなシルフに苦笑いを向け、同じく苦笑いをしているように感じた緑に視線をむけた。 『なんだ? わっぱ』 「ちゃんと登れた。ありがと」 『……今度からは自分でな』 「ん」 未だにシルフが何かを言っているが、慎は聞かないフリをした。 ここまで来る中で、少しは気持ちが落ち着いた。 ……少しは。 慎は深呼吸をして、体を弛緩させた。 「……楠のおばば」 『ん?』 「ちょっと寝る」 一言だけ残して、彼は目を瞑った。 不安定な場所だけれど彼は落ちる心配はしていなかった。 そこに、密かなシルフ達への信頼があることを、彼はまだ気付いていない。 けれどシルフ達は、この木の上で羽を休めている神獣も、じっと息を殺して姿を現さない麒麟も気付いている。彼らは、導主の密かな信頼ですでに満足だった。 そんな彼らの気持ちもしらず、慎は眠りの深みへとおちていく。 ――今の彼が安らげる場所はそこくらいしかないから。 |
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