慎が去ってからの大広間は静寂に包まれていた。 喋れなかったのだ。あの空気に飲まれてて。 高々、齢14の少年の雰囲気に。 「さてと」 一番初めに声を発したのは静だった。 いつもと同じような声音で、のびーっ、と上に腕を伸ばすと、夫に向かってにっこりと笑い。 「! な、何するんだ!」 「仕返しよ」 平手うちをした。 大きな音が鳴り響き、厳の頬が真っ赤になっている。 あまりに突然な事に口をぱくぱくとさせる厳ではあったが、静の視線はもうそちらには向いていなかった。 隅の方で控えていた、赤みを帯びた金髪の少年に声をかけられたからである。 「姐さん」 「あら、芹。豪気なものね」 「いえ。一応、俺はあいつの従者ですから。聞く理由はあるかと思いまして」 側にいるだけですけど。 苦笑い混じりに漏らした言葉に、ごめんなさいね、と静も苦りきった笑みを向けた。 「それで?」 「佳良からは何時でもと」 「ありがとう」 膳をシルフで持ち上げ、ついでに芹のも浮き上げる。 「あ、俺やりますよ?」 「いいのよ。駄賃だと思いなさい」 「了解です。今度仕入れ手伝います」 「助かるわー」 にこり、と笑って、大広間を出て行こうとする。 「待て!」 夫の声にぴたりと止まる静。 冷えた目で彼女は夫を見据えた。 「何、かしら?」 雰囲気まで凍っている。 昔、手合わせをした時に彼女が纏っていた気配に似ていた。 そんな彼女に気おされながらも、厳は先ほどの芹が言った一言を指摘した。 「佳良、とはどういうことだ」 「そのままよ」 単純明快。 それだけだった。 また歩き出そうとした彼女の足が止まる。 どうやらシルフで足止めを喰らったらしい。 不愉快そうに振り返った彼女は、本当に面白く無さそうな顔をしていた。 「貴方が私に勝てるとでも?」 「……勝てないさ」 「なら、放って置いてくれるかしら。言葉通り、里帰りさせてもらうわ」 佳良。 紅の一門とは親戚筋にもあたる、由緒ある一門である。 静は、幼い頃、紅に養子として入ってはいたが、本人としては、実家にあたるのは佳良の家らしい。事実、彼女は、十を過ぎたあたりから、ちょくちょく、里帰りと称して、佳良の家へと帰っていた。 「ちょっと、ここまでとは。――正直うんざりだわ」 眉間に皴を寄せ、厳を睨む。 「……器って、言ったのね」 「……さて、な」 「慎が言ったんだから言ったんでしょうよ。芹」 「はい」 「慎の護衛、頼むわ」 「任せてください」 にっ、と歯をみせて、笑ってみせる芹の頭を一度だけ叩き、再び背を向ける。 「お前も責務、と言ったんだろう」 厳からは見えないが、静の顔が歪んだ。 ……嘘ばっかり。 近くにいた芹にはそう聞こえた。 きっと厳の口調から、言外に自分が言った言葉を認めたと受け取ったのだろう。 きゅっ、と唇を引き締めてから、彼女は再び口を開く。 「あの子は、麒麟に選ばれた。六歳だったけれど、自分から契約をする、と言った。それならば、麒麟と契約する責務がある、そう思っただけよ」 「だから俺は、それを一族に役立てようと」 「――息子を道具にして? 馬鹿馬鹿しい」 踵を返し、大広間を出て行こうとしていた静の身体が反転した。 部屋に残っている大人達を冷ややかな笑みを浮かべて睨みつける。 「自分の能力のなさを呪ったら如何? 修練もせずに権力争いをしているから、息子を、宗家の長子を道具扱いしなきゃいけないのよ」 あんまりな言葉に厳を初めとした大人達の顔が歪む。 確かに軍部の中でも実力を認められ、部隊長を任せられている静からすれば、分家の人間など、取るに足らない存在かもしれない。 けれど、全体から見たら、ここに残った者達は実力者と呼ばれる実績を残してきた者達だ。静の言葉が傲慢に聞こえても仕方が無い。 「……静様。お言葉が過ぎます」 「ごめんなさい、願は違うわね……。確かに強いもの」 願は、静よりは2,3年下だが、幼い頃は、静と一緒に修練をしてきた仲である。 身をもって彼の実力を知っているので、ごめんなさいね、と謝る静であったが、願は困惑気味に首を振った。 「いえ、そういう事を言ってるのではなく」 仮にも実力者達を貶める発言をするのは――。 そんな風に続けようとしていた願であったが、その内容を真っ向からぶった切る発言を洗練された所作を伴って口にしたのだ。 「貴方以外の大人はコネで隊長になった、って話を聞いてるのだけれど」 はっ? ――今、なんと。 驚愕の内容に、思わず顔を上げた願に、静は可愛らしく笑ってみせるだけだ。 「まぁ、そんな事はどうでもよくって」 「どうでもいい事では」 「いいのよ。そこで嵌ってれば」 ね? と、指摘された男に視線を静は向けるが、彼は青ざめた顔で背けるだけであった。 「自分の身の丈以上の物を貰ってどうするつもりなの? 能無しの肩書きでも欲しいのかしら」 嫌味たっぷりの言葉に、ついに厳が耐え切れなくなったらしい。 押し殺した声で、妻の名を呼ぶ。 「静」 「それとも、何? ただの僻み?」 「……口が過ぎるぞ」 「貴方には負けるわ」 襖が密かに鳴った。 人為的なものではない。 一番出口に近い所に移動していた芹は、後ろの戸がガタガタ言い出すのをその耳でしかと聞き、うわぁー、と情けない声をあげた。 見上げれば、上の小さな戸も若干震えているような気がする。 夫を厳しい顔で見つめているであろう静の背中を数秒間見つめ、後ろの襖を見つめ、芹は静観するのを止めておくことにした。このままだと、当主だけでなく、自分にも被害が来る、と判断したのだろう。 「あー、姐さん」 「なに、かしら」 「邸が壊れるので、シルフの統制お願いします」 すでにがたがたと言い出している襖を示すと、彼女は天井を見上げ、大きく息を吐いた。 『なぁーんだ、もう終わりー?』 『しーずかー。終わりなのー?』 「えぇ、ちょっと放出しちゃった。ごめんね」 『もっとやってほしかったぁー』 「それはだめよ。家が壊れちゃうから。片付け面倒でしょう?」 ――それはちょっと違うと思います、姐さん……。 そんなことも思いながら、芹を含め、他の気付いていた者も安心したように肩を下ろす。 静も、どこか落ち着いたように見えた。 見えただけだった。 「――遅すぎるのよ、このノロマ!」 転がっていったのは、当主だったか。 目を点にする大人、芹の目は同じように点になる。 え、足蹴に、しましたか。 「八年間放っておいて、今頃、しかも願に聞かれてどうするのよ!」 「し、静、首」 「はい? 首が何? 馬鹿じゃないの」 襟元をつかみあげ、さらには持ち上げている。 「……気持ちも考えなくて、何が同調よ。離縁も考えさせて頂きます」 「は、ちょ、――静!」 どん、と静は夫を突き出し、冷ややかに見下ろした。 しりもちをついている状態の厳は哀れみを誘うほど、蒼白である。 遠巻きで見ているしかない分家の大人達も、ぎょっ、としている。それはそうだ。宗家の奥方、しかも、実力者である静が、そうして親権貰ってくわね、と言って慎まで連れて行ったら相当な痛手である。 そうでなくても、静はこの紅の一門の中での中心であったし、彼女の一声で引き締まる部分もあった。影の当主、と評されている部分だってある。 「し、静様?」 「お気は確かですか?」 「……静姉さん……」 願までが、呆気に取られて昔の呼び名に戻ってしまっている。 唯一、芹だけが、佳良との会話の中で何か勘付いていたのか、やっぱりかぁ、と頭を抱えていた。 「……慎の気持ちが分かるような気がするわ……」 私も一齣なのよね、やになっちゃう。 本気でいやそうな顔をしてから、彼女は今度こそ踵を返した。 「じゃあ、また皆さん、仕事場であいましょ」 ひらひらと手を振って、彼女は襖の奥へと行ってしまった。 はっ、とした厳が立ち上がり、走って彼女を追いかけるが、時すでに遅し。 滑るようにシルフで浮かんでいた静は、すでにそこには居らず、はるか上空へと飛び去っていった。 中庭から方向を確認していた芹は、市に言ってから行くのかー、と暢気に観察をしていた。 「お」 静のほうから、少し丸くなったシルフが芹の方へ飛んでくる。 『せーりぃー』 「姐さんから?」 『そーうっ。しずかから伝言だよー』 重たいなぁ、と言いながらシルフは、芹の掌へ座った。 「ね……静様から伝言だそうです」 「! な、なんだ?」 ばっ、と話したシルフは、腹の中へ貯めていた言葉を取り出した。 『さっきのは、多分、きっと、おそらく、……冗談よ。お父様に怒られちゃうもの。――当分は帰らないから、結界は頑張ってね、当主サマ』 当主が固まっている。 願も、これだからは……、と言ったように頭を抱えている。 分家の大人達も、目を丸くしてそのままだ。 「あーぁ。姐さんらしくて笑えない」 芹はそういって、とりあえず大広間から出ることにしたのであった。 ――静はどこまで行っても静であった。 |
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あとがき ちょっと迷走な回でしたが、書いてて楽しかったです 静様は、暴走キャラだということを、一応まとめ終わってから思い出したという後の祭り状態でした。 |