何年すぎただろう。

 凄く過ぎたような気もするし、あっと言う間に過ぎたような気もする。

 子供っぽくない言葉。

 そう形容されるかもしれないけれど、実際のところ、僕の感覚はそんな感じだった。

 相変わらず僕の周りは騒がしくて、かの獣王とは切り離してくれない。

何度罵倒されたか、

何度攫われかけたか。

何度殺されかけたか。

何度――。

そのたびに僕の心は冷え切っていって、彼との間を小さく開けていった。

相変わらず、僕の世界では、水色が元気に飛び回って、赤がほわほわと浮かんでいて、黒がひっそりと笑っている。

 時々、僕の目の端を金色が掠めるけれど、僕は見ないふりをしている。

 それが、僕がひっそりと決めたことだったから。

 子供っぽい理由で、何とも鼻持ちならない理由だけれど、これだけは譲れなかった。

 僕が僕であるために。

 

 ――僕は、麒麟とあれから一度も話をしていない。

 

 

 

 慎にとって、十四回目のウィンディーネの月。

 中庭の立派な楠の枝に腰掛けていた彼は、シルフの動きを眺めながら、ぼぉーっとしていた。

 シルフはこの世界で最も多い精霊。

 風ならどこでも存在するからである。

 そのため、シルフは情報収集の時に活躍したりするのだが、彼はシルフをそんな風に扱っているようでもない。ただ、彼らが楽しげにくるくると舞っているのを見ているだけである。

 楽しいの? と聞かれたら、きっと彼は、さぁ? と答える。

 彼の心情は複雑で、楽しいと表現するのが躊躇われるからかもしれない。

 ふと、慎の目がシルフから逸れる。

『導主―?』

 シルフの問いには答えず、彼は視線を下に向けた。

「何?」

「お食事の時間です」

「そう」

 分かったから、と頷けば、使用人がそそくさと下がる。

 腫れ物を扱うような動きだ。

 当の慎は慣れた様子で全く気にしてはいなかったが。

 楠から降りようと下を見、ためらうように足を揺らした。

『手伝おうかー?』

 ふわりと風を起こしたシルフを一瞥し、彼は小さな声で否定した。

「いい」

 ぶん、と一回だけ足を大きく振るうと、そのまま飛び降りる。

 彼の倍ほどの高さがあった木ではあったが、下が柔らかい砂であったため、彼にかかる衝撃は少なかった。

 着地する時に体勢が崩れたが、なんとか持ち直す。

 ちょっとだけ眉を寄せて下を見て、ありがとう、と呟くと、彼は邸の中に入っていった。

 履いていた下駄を脱ぎ、砂で汚れてしまった足を、使用人が渡してくれた手ぬぐいで拭く。

 僅かながら頭を下げてそれを返すと、嫌そうに一回だけ顔を歪め、虚空に向かって、いやだなぁ、と呟いた。

 その言葉を拾ってしまう人がいるかもしれないのに、彼はその言葉を口にした。

 シルフの紋章を持っている者ならば、ましてや、獣王麒麟の紋章を持っている慎なら、その言葉を届かないように留める事も可能だろうが、如何せん、彼はその事をしようとしなかった。出来る、という事もしらないのかもしれない。

 彼くらいの年代の子供ならば既にやっているはずの、“契約したものとの同調”をやっていないからである。

 それが原因で今現在、彼はため息をついているのだが。

 諦めたのか、止まっていた足を彼は奥へと運び出した。

「今日も、かな」

 口元には苦笑いらしきものが浮かんでいる。

 似つかわしくない、諦観。

『変なのいいだしたら、ふさいであげる!』

 彼が呼ぶ“水色”が、勇んで言うのを、慎はやっぱり複雑そうに見ていたけれど、目には安堵の光が浮かんでいた。

 しかしそれも直ぐに消え、気持ちだけ受け取っとくよ、と彼彼女に伝えた。

 それでも尚、シルフは、『ボクやるからねっ!』と宣言をしていたが、慎は口元に何ともいえない笑みを浮かべるだけだった。

 目の前に襖が現れた。

 いそいそとお膳を運ぶ使用人達が居て、慎を見ると、当主様方がお待ちですよ、と告げた。

 深呼吸する。

 表情が消えた。

「入ります」

 からり、と開ければ、一族総出の昼食が始まっていて、夕食ではなく、酒なんて出ないのに、何故か騒がしかった。

 コの字を描くようにして座っている一門の者達の後ろを彼は静かに歩いた。彼は宗家の長子であるため、座る場所は上座なのである。

 後ろを通るたびに、大人達の厳しいような、恐れてるような、そんな視線を浴びて、慎は密かに顔を顰めた。

 あまり心地の良い視線ではない。

 ひそひそ聞こえる声はきっと、何で未だに――、という自分への当てこすりだ、という事は、とっくの昔に慎は知っていた。

 何時ものごとく厭きないなぁ、と呆れ半分、イラつき半分で流しながら、彼は自分の席へと座った。

「あらあら、遅かったわね」

「何をやってたんだ」

 彼の母は面白がるような顔で息子を見、逆に父はイラついた顔で息子を咎めた。

「水色の」

「水色?」

 彼独特の呼び方に厳は、怪訝そうにする。

 母親である静は、すぐにピンときたらしく、シルフが? と問い返す。

「……水色の動きを眺めてたら遅くなりました」

 躊躇った後、素直にそういえば、少しだけ父親の表情が明るくなったので、慎は言葉を付け足しておいた。

「眺めてただけですが」

 面白いように変わった父親の姿を眺め、澄ました顔で汁を啜った。

「あ、美味しい……」

「料理人達が喜ぶわ。出汁にいい物を使ったって言ってたわ」

 沈没している夫を尻目に、静も美味しそうに汁を飲んでいた。

「この人も干したら良い味が出るかしら」

「きっと、油しか出ないですよ。最近脂汗出すぎですから」

 真面目な顔でそういうのだから、可笑しい。本人は嫌味たっぷりでの事で、あまり真面目でもないのだが。

 夫をしげしげと眺めると、静は確かに太ったわね……、と慎の言葉を肯定した。

 それから、嬉しそうに頬を綻ばせた。

「言うようになったわ。――と言うわけで、貴方、減量なさい?」

 嬉々として彼女は夫に言い放った。

「俺は公務が忙しくてな!」

 復活した厳はすぐに、尤もなことを言ってみるが、妻には全く通用しなかった。

「赤の座に座ってお酒を飲んでる事が?」

「……公費の乱用……」

 ぼそりと息子が言えば、妻もしらーっ、とした目で夫を見つめる。

「あらら? 息子にそんな事言われるわよ?」

「そ、それも仕事だ」

「それにしては高そうなお酒だったわねぇー? 陛下はご存知なのかしらー」

「へ、へ、陛下は……」

「あの方は質素倹約に暮らしてみえるのに」

 あぁ、ご飯が美味しい。

 白々しくも、そう嘯いてみせる静に、厳は赤くなったり蒼くなったりと忙しい。

 ちなみに、最低限の配慮かは分からないが、静はこの話題の時のみシルフの情報を封じてしまった。

 分家の中で彼女よりも同調率が高い者は居ないから、聞こえている者は皆無である。

 慎も同様、上にいたシルフ達が、わーい、と言いながら母親の方へ行ってしまったため、障壁内ではあるが、干渉することは出来ない。

そんな妻の配慮を知らず、厳は怒鳴りかけようとしたところで、相手はふいっ、と息子の方へ向いてしまった。

 拳を振り上げかける夫を、シルフで軽く抑えつけ、彼女自身は全く彼の方を見ない。

「慎、貴方、シリンのお茶好きだったわよね?」

「? はい」

 訝しげに首を傾げる慎は、すでにお膳を空にしかけている。

 成長期ねぇ、と母の感想を漏らし、それから嬉しそうに報告した。

「壷に一杯買ってきたわ」

 途端、頑なだった彼の顔が、少しだけ緩む。

『どーしゅ、甘いもの好きだもんねぇー』

『シリンのお茶って、すっごく甘いらしいね』

『導主すきそう』

『顔にやにやー』

 慎の上を飛んでいた水色四つが、口々に言うのを見て、急に慎の表情が戻る。

 それでも、嬉しそうなのは変わらずで、本当ですか? と母に問う。

「えぇ。私も欲しくて欲しくて欲しくて堪らなくてね。昨日、買い占めてきちゃった」

「……流石、母上」

「ふふふ、そうでしょうー。後で淹れて上げるわ」

「蜜は――」

「二杯でしょう? 分かってるわ」

 蜜だって一杯買ってきたんだから、と親指を立ててみせる。

 内心とても嬉しがっているのだろう。意識して硬くしている口調が、解けて小さな頃のような口調に戻っていた。

「じゃあ、焼き菓子食べたい」

「あぁ、茶請けにいいわ。後で作ってもらいましょ」

「蜜多めにね」

「当たり前じゃない」

「じゃあ、今日はちゃんと家にいるよ」

「分かったわ」

 嬉しそうに静は笑った。

 麒麟の契約を境にして、彼はあらゆるものに壁をつくるようになってしまっていた。

 家にいてもそれは同じで、以前遊んでいた友達とも距離を置くようになり、歳を重ねるごとに、家の外に居ることが多くなっていたのだ。

 悪い奴と一緒にいるわけでもなく、以前、世話役として一緒に居た、芹と登っていた木の上で、何もせずに座っている。

 シルフからの情報で把握はしていたものの、家に居てくれるのは嬉しい。

 丁度静も休養日であったので、家に居れる日。

 目元を緩ませながらもご飯を口に運んでいると、隣でごちそうさま、という慎の声。

 がたり、と立ち上がる慎に、待ちなさい、という声が掛かった。

「……なんですか、父上」

 先ほどとは違い、心底いやそうな顔で彼は父親に返した。

 それを癪と感じたのか、眉間に皴を寄せて、厳は彼を咎めた。

「父親に向かってなんだ、その顔は」

「素ですけど? ……用がないなら部屋に帰ります」

 本気で踵を返した息子に、慌てて厳はシルフで足止めをかける。

 慎は深く、深くため息をついた。

『何やってんだよー、君ら』

『だってねぇー、お願いされちゃったし』

『導主になにやってるの!』

『うああ! 導主ごめんねええ!』

 すでに枷は外れかけていた。

 それでも帰らなかったのは、夕食の時にまた面倒な事になるだろうから。

「なんですか?」

 再度聞きかえす彼の耳に届いたのは、今一番聞きたくなかった問いだった。

「麒麟との同調はやってるのか?」








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