3. 変動

 

 何事もないように見えて、結構何事もあるのがこの生活。

 いつも通りの生活をしているようで、些細なことが狂ってきている。

「今日は何?」

「漱石よ」

「夏目?」

「そう」

 ふぅん、と言ってから、彼は真ん中の集団の中へ入っていく。

 馨君、と呼ばれたからだ。

 律儀ね。

 感心するけど、関心はない。

 やっと中に入れる、と思うだけ。

「ふぅ」

 息をついたら、隣に春日がひょっこりと現れた。

 ……しょうがない、今日は無理な気がする。

 ぱたん、と本を閉じた。

 春日は私の読書のお供、芋けんぴを一本無断でくわえ、ご満悦顔だ。

「どう? あの人の隣」

「疲れる」

「あらま」

「時々話してくれるから、女の子の視線が痛いわ」

 小説でしかないと思った事が現実にあるなんて、ほんと、頭が痛すぎる。

 にやにやと笑って春日が言った。

「気があるのかもよ?」

「ありえないわ」

 笑いを含んだその問いを、一応ばっさりと切り捨ててやる。

 ありえないから、ありえないもの。

「多分、何読むか気になるだけよ」

「そうかな?」

「毎日作者変えてるからそこが気になるのかもね」

 春日が首を捻った。

「市ノ瀬君って、本好きだっけ?」

「……さぁ?」

 図書館の事を思い出した。

 良く分からないけど内緒にしたいみたいだったような。

 正直あまり覚えてないけど。

「気になるだけじゃない?」

「何を」

「本が」

「本好きだったとは意外だねぇー」

 春日も恋愛系の話はあまり得意でないらしく、それ以降は全く振ってこなかった。

 春日は。

 芋けんぴを十本くらいくわえて何処かへ駆けていったあの子と入れ違いで、隣に女の子が一人やってきた。

 どうしたの? と聞いてみれば、私の席の隣にしゃがみ込んで聞いてくるのだ。

「不知火さんってさ」

「ん?」

「市ノ瀬君と仲いいの?」

またこの話題。

 ため息を吐きたくなるのを押さえ、せめての礼儀と、再び開きかけていた本を閉じて、首を傾げて見せた。

「どうして?」

 この切り替えしは予想してなかったらしい。

 どうしてって……、と困惑気味に顔を曇らせ、思いついたのか、顔を上げた。

「この頃話してるみたいだからさ」

 その問いこそ不可解だ。

 話してる、って言っても、たった数分よ?

「それなら、三神さんの方が話してるじゃない。私には二人の方が仲良いように見えるけど?」

 客観的に見たら絶対そう。

 力強く言ってあげれば、彼女は照れたように笑った。

 恋する女の子は可愛い、って言うけれど、本当に可愛い。

 私がやっても絶対似合わない、頬を染めた笑顔も、彼女にはよく似合っていた。

「そ、そうかな」

「うん。私と市ノ瀬君のは本の話だけよ」

「不知火さん、本好きだもんねー」

「三神さんも読んでみたら?」

「うえええ! で、でも、私、難しいのわかんないよ?」

 急にうろたえてきた彼女に一冊の薄い本を差し出す。

「恋愛系の短編集よ」

「短編集って言うと、短いお話の?」

「そうそう。これなら三神さんでも読めると思うの」

 無理強いはしないけど、興味があるならどう?

 控えめにお勧めしてみたら、彼女はちょっとだけ迷うように手をさまよわせ、それからおずおずと本に手を伸ばす。

「読むの、遅いよ?」

「大丈夫。もう読んじゃったもの。それ」

「そうなの?」

「えぇ。だからゆっくり読んでみて? 三神さんが楽しんでもらえたら嬉しいから。一つ一つのお話は凄く短いから、読みやすいと思うの」

「それなら、読める、かな?」

 抱きしめるようにその本を持って、彼女は笑った。

 広めれて嬉しい。

 私も、彼女に笑顔を返した。

 そうしたら、三神さんは驚いたように固まってしまった。

 どうしたの?

 聞いてみたら、驚いたの、と彼女は言った。

「あのね、気分を悪くしないで欲しいんだけど……」

 彼女曰く、もっと私は怖い人だと思っていたらしい。

 ずっと本ばっかよんでて、下を見てて、それに傍目から見たら真面目だし、と。

 それを聞いて、思わず私は笑ってしまった。

 予想通りのイメージが固まっていたみたいだから。

 確かに、人付き合いは苦手だから、あの輪の中には入っていくことなんてしないし、春日に誘われなければ、昼食だって一人で食べる。

 他の子のようにつるんでどこかに移動もしなければ、じっと一人で本を読んでいることだって多い。

 極めつけが、寝ないで授業をちゃんと受けてるように“見えている”こと。

 本当は、下で読書をしていたり、違う教科を見ていたりと、真面目には受けていないのだけれど、寝てはいない。

 そこから、真面目で、優等生で、ちょっと怖い? 人、ってイメージができてるのかな、と思ってたけど、ここまで予想通りの事ができているとは、逆に予想していなかった。

 くすくすと笑ってしまう私を見ておろおろとしていた三神さんは、あのね、と続けた。

「でも、不知火さんは優しい人だ、って分かったから」

 今度は私が固まる番。

 彼女はにこっ、と笑って本を指差す。

「読んでみるね、これ」

 それだけを告げて、彼女は自分の席にと戻っていった。

 私は目を瞬かせ、その姿を見送った。

「あら、ま」

 一つにまとめてある髪をくしゃりと握った。

 こんな所にもつながりができるなんて。

 すとん、と椅子に座ってそれから。

「ないわ……」

「なくないよ」

 いつの間にか戻ってきた春日が、また芋けんぴをくわえていた。

 いくつ食べるの、と睨んでやっても、そこに芋けんぴがある限り、と堂々と言われてしまったので、私はもうどうしようもなかった。

「三神さん良い子だねぇー」

「良い子すぎて、どうしよう」

「惚れちゃった?」

「かもね」

 顔を見合わせて笑う。

「席替えしてからとんでもないことばっかね」

「どうして」

「会話が増えたわ」

「いいじゃん。会話は大事だよー」

 また一つお菓子が減った。

 煙草を吸うようにそれを啄ばみ、口の中に入れていく。

「減るもんでもないし。むしろやった方がいいよ?」

「時々ね」

「うん」

「口を開くのがめんどうな時があるの」

「それは重症だね、お嬢さん」

「かな?」

「そうだよ。喋ってくれないと拗ねちゃうぞー」

「春日の問題じゃない」

「それ以外に何が?」

 本気で不思議そうに言うので、また一つ頭を叩いてやった。

 相変わらず軽くなので、全く堪えた様子はなかった。

「まぁ、それは冗談としてだね」

「急に口調を変えないの。気持ち悪い」

「うわぁー、ひっどぉい、朱里」

「それもあんまり。イラっ、ってくるわ」

「んじゃあ、朱里さん」

「さん付けいらない」

 ちぇー、と彼女はむくれ、すぐに気を取り直した。

 この辺の切り替えは早すぎると、いつも思ってたりする。

 どうせ、演技だからだろうけれど。

「ともかくさ」

 私を見て笑う。

「良い兆候じゃない? 朱里の会話量が増えたのは」

「改悪だとは?」

「思わない」

「その心は?」

「だって、朱里は優しい子だもん」

 さらりと言われた言葉が恥かしかったので、いつもより強めに叩いておいた。

 大げさにいったぁい、と主張する春日を無視して、本へと視線を戻す。

 話の種は本ばかり。

 でも、きっかけは。

「隣の席の子のおかげかもね」

 頭を抱えたまま春日が言った。

 私は正直に、ちいさく頷いた。

 

 ――いやではない、気分だ。





    
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