「……麒麟?」

『あぁ、流石に気づくか』

「当たり前でしょう」

 空中をずかずかと歩いていた静香は、ふと途中で足をとめていた。身近な気配がその場に降り立ったからである。近くに来るまで気づかなかったほど、その存在は自然に降り立った。何処からきたのか全く分からない位。

 光の屈折具合で姿をカモフラージュしているのか、静香からはその姿も容貌も見えない。シルフや光の精霊に退いてくれるよう頼んでみても、見事に知らん振りをされる。

 どちらも最高ランクの同調の印を持っている静香が頼んでも、だ。

 そうなれば、この身近に感じている気配はかの獣王以外に考えようがなかった。

 気づかれたことに対して、麒麟は気分を害した様子はなく、むしろ面白そうに笑っている。

 息子の傍にいたのではないのか、という静香の問いに対し、気持ちよさそうに寝ていたのでな、と麒麟は言った。

「あの子が?」

 若干の驚きを持って彼女が問い返す。

 獣王が首肯するのを見て、さらに目を丸くした。

 契約してからの慎は、変わった。

 内に閉じ篭るようになった等、変化点は様々だが、まず人の気配に敏感になったのである。

 夫は未だ同調をしようとしない息子に憤りつつも、感覚が鋭くなったと喜んでいた。しかし、そうではない。そんな前向きな理由じゃないのだ。彼はひたすらに臆病になっただけ。

 本人には直接言うつもりは全くこれっぽっちもないが、静香はそう思っている。

 だからこそ、寝ている時にでも近くに人が来ればすぐに目を覚まし、何かを警戒するような目をあちこちに送った後、疲れたようにまた目を閉じるのだ。

 それを知っているから“気持ちよさそうに”という麒麟の言葉に驚いたのだろう。

「……なら、良かった」

『あの分だと、夕食前位までは寝れるとは思う』

「そうですか」

 先ほどまで尖った雰囲気を漂わせていた彼女だったが、ようやく緩ませた。息子が心配だったのだろう。安心したせいか、静香の中で破裂しかけていた激情も、その姿を萎ませていた。

「寝れる余裕があるなら大丈夫でしょう」

『昼食ので張り詰めていたのが切れたのだろうな』

「えぇ。……悪い事には変わりありませんが」

 とめていた足を静香が踏み出す。

 それにあわせて麒麟もすべるように空中を動く。

「佳良に」

『ん?』

「佳良につれて帰った方があの子のためなのかとも考えましたが」

 艶やかな紅の髪をくしゃりと握り、静香は首を振った。

「私が考える“よい”と慎が考える“よい”が同一とは限りませんからね」

 静香の言葉に獣の顔で分かりにくいものの、麒麟は苦笑らしきもの浮かべた。首を逸らし、上空のシルフの動きを見つめたかと思えば、近くに居た神獣越しに干渉をしている。

『……そなたは中々に厳しいな』

「そう、でしょうか?」

『あぁ。子に自主判断を求める。五歳の幼子にもだ。それは聞くままであれば美徳かもしれないが、ただの放任かもしれぬな』

「……かもしれないですね」

 静香は首を振らなかった。

 ただ、困ったように笑っただけだ。

「けれど、獣王様。私は、親元を四歳で離れ、紅では大人からは放置をされていました。あぁ、愛情はちゃんと感じてましたよ? でも本当に“自主判断”が方針だったんです」

『……それは、なかなかだな』

「だから他のやり方が、……良く分からないんです。私がそれを悪と思わず、良しと思っているのですから」

 それが慎にとってどうなのかはよく分かりませんが。

 少し苦い笑みだ。

「……失礼しました。獣王様に愚痴めいたことを」

『いや、良い。私も結構興味があったからな。そなたの考え方には』

「私に、ですか?」

 間柄としては、契約者の母にあたる静香である。

 興味を持たれていても可笑しくない立場ではあるが、不思議に思ったらしい。

 獣王は、からからと笑いながらも頷いた。

『どんな剛の者かと思ってな』

「……思われている程私は強くありません」

 恥じるように顔を伏せた静香は、その下で唇を噛んだ。強くあれ。自分にそう言い聞かせてはきているが、息子一人の心さえ守れない。

 せめて、息子の“選択”が良かったといえるものになるように助けてやりたかったはずなのに、自分は裏切ってばかりだ。……軍が、家が、これほどまでに重荷になるとは。いや、これもただの言い訳だ。

 静香の上を柔らかな風が通り過ぎていった。俯いていた彼女が顔を上げても、そこにはただ底抜けに青く広い空が広がって見えるだけだ。けれど、……傲慢な考え方かもしれないが、獣王が慰めてくれているように思った。

 前に顔を向けた時に、麒麟は小さく呟いた。

『強いだけのモノなど存在しない。人も精霊も神獣も。何もかも例外なく、な』

 理の中で動くシルフ達が、思い出したかのように突風を浴びさせる。

 双方ともそれを難無くいなし、速度も落とさず前へと進む。

「獣王様、もですか」

 シルフの囁きで聞き取っていたのか、しばらくの沈黙の後に静香もまた呟いた。

『無論。王など称されても、出来ぬ事は出来ぬよ。……そなたの息子の心を癒す事も』

「その件につきましては……。……八年も退屈されたでしょう」

『八年など、一眠りしてしまえば過ぎるもの。人の子の時の流れとは異なるのだからそう気にするな』

「しかし」

『物足りない事はあってもな。静香よ、そなたの息子は中々にして面白い。退屈とは程遠い時間であったよ、八年の月日は。……だがな』

「? どうか?」

『……助けたいと思った時に助けられないのは辛い物だな。契約者のために振るうには、我とて、望まれなくては干渉が出来ない』

「そう、ですね」

 青々とした空が何処までも続く。

 真下には農村なのか、多数の畑とちらほらと民家が見えた。空はまだ青いもののそろそろ夕時だからか、白い煙が見受けられた。シルフが運んできた匂いはどれも素朴で、実家の味が恋しくなりそうだった。

 太陽がずいぶんと傾いてきた。薄く色づいているようにも見える。

 そのまぶしさに静香が目を細めた時だった。

 彼女が何かの気配に気づいたらしく、弛緩させていた身体を緊張で固める。 麒麟は麒麟で、微塵にも興味が無いらしく、欠伸交じりに彼らの言葉で会話をしていた。

 流石だな、という声が肉声で響く。

「……佳良の」

 彼女をそう呼ぶ人物は一人しかいない。

 振り返れば、予想通りの人物がそこにいた。

 この国で唯一の黒衣に金糸と銀糸をあしらった軍服を纏う男。巫王を除いて、最高位の力を持つと言っても過言ではないその人。

「! 総帥」

 今までは母の顔をしていた静香が一瞬にして軍人のそれとなる。流れるような所作で敬礼を空中でしてみせた。

 だが、疑わしそうな表情は隠しきれなかった。総帥は、視察や大部隊を動かす以外は基本的には都を離れないのが通例である。……そんなにも簡単に動いて良い役職ではないからだ。静香も本来ならそう簡単に動いて良い物ではないが、今日は休みであるから勝手が違う。

 蒼輝は逸る心を抑えて、彼もまた敬礼を返した。双方とも空中で。勿論、リヒト――光の精霊で姿を誤魔化してはいたが。

 彼は静香を見、何かを告げようとしていたが、その口が彼女の斜め上を見て閉じてしまう。目が見開く。

「獣王! 何故ここに」

 完全に麒麟が気配を消していたためか、彼はここまできてようやく麒麟がここに存在していた事に気づく。失態だ。蒼輝は隠すこともなく舌打ちをした。そうして気づく。

 ならばあの少年は、傍に何の守護もないというのか――。

『……我を見てそうなるとは、何かあったか』

 はっ、と蒼輝が顔を上げると、リヒトの迷彩をとりはずして麒麟が現れていた。

 柔らかい黄色の毛並みがシルフの風によって小さく揺れた。

 獣の顔なので分かりにくいが、厳しい顔をしているようにも見える。

「……閣下。私を探してみえたということは、慎の事ですか」

『我の事も考えると確実だな。……どれ』

 麒麟が探っているのを待たず、蒼輝は静香に向かって首を振った。

 それだけで、静香の目が丸くなり、険しくなった。

 そして、何時もなら無作法にあたると決して、上官の前では精霊との干渉を行わないのに、焦った静香は気にも留めず、留めれず、シルフとリヒトを飛ばした。早く、早く、と。蒼輝も咎めなかった。彼らが探索をしているうちにシルフに言葉を託すと、巫王へと送る。――捕まえたと。

 再び彼が彼女らに視線を戻すと、揃って厳しい顔をしていた。静香に至っては、憎悪とも取れる表情をしている。

「閣下」

「静まれ佳良の」

「……できるとお思いですか」

「それが、軍人だ。首を括る覚悟で入ったのだろう」

 彼も険しい顔で静香を見る。数秒の間、無礼とも当たる険しい表情で蒼輝をにらみ付けていた静香だったが、ともすると、ふっ、と短い息を吐き、失礼を、と小さく頭を下げた。

『南東、だな』

 重低音が響いた。

 黒曜石のように光る眼は今は見えない。きっと開けたら呆れたような色をしている。

 彼の周りを風の属性を纏った神獣が飛び交う。人である二人には聞こえない言語を話していた辺り、大方、慎の居場所でも聞きだしているのだろう。

 巫王の含みある南東とは違い、獣王が言うは明確な方角。たん、と空中であるにも関わらず蹄の音を鳴らしたかと思えば、また迷彩を纏う。国の最高位の術士でさえも至近距離に来なければ分からないほどの。

『……そなたも来るか?』

 周りに居た、神獣の一匹に道案内を頼んでいた麒麟であったが、ふとその顔を静香側に向け――彼女には見えていないのだが――確認をした。

 静香は、目を見開き、一度は何かを言おうと口を開きかけたが、沈黙の後に首を横に振った。

「……行けません。……行けないんです」

 彼女の地位は、部隊長。複数の小隊、中隊を纏める者だ。

 勝手に動く事は許されない事。

 まだ、証拠だってあがっても居ないのに、上流階級にあたる蘇芳の家に殴りこみに行ったらそれこそ彼女の部下まで責が及ぶかもしれない。

 傍らに居た総帥は拳を握った。だが、首を擡げた言葉は言うことはかなわない。彼も役職のために。

「……すまん」

「思うならば言わないで下さい。……私は“南東”を探します」

「待て。お前はそっちじゃない。佳良で待機していろ。由華が……陛下が今探している。お前がやっても二度手間にしかならない」 

 そこで彼は振り返り、律儀にそこに留まっていた麒麟に一礼した。

「玉を、よろしくお願いします」

『さてな。我は契約者を探しに行くだけだ』

「……佳良のは行かせれませんが。帰還したばかりの、まだ“居ない事になっている”奴を向かわせました。あ奴はまだ未熟ですが、一応は使えましょう」

 疑問符を浮かべる静香にはかまわず、蒼輝は続けた。

「……この幸運に感謝すべきですかね。俺には計りかねますが、ただ」

 隣に居てくださったらよかったのに。

 言わずにはいられなかった言葉なのだろう。その後に、はっ、とした顔で失言をお許し下さい、と頭を下げた。

 麒麟は、良い、といいながらも苦そうだった。笑みなどは含まず、ひたすらに苦く、苦い。

『我とて、万能ではない……。なれたらいいのだがな』

 小さな呟きは、シルフも拾わない。

 再び蹄の音が響いたかと思えば、すでにそこには麒麟は居なかった。







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