「走ってっちゃった」

 門番の大声が聞こえたから見てみれば、鈴明が泣きそうな顔をして家の方向へ走っていくのが見えた。

 鳶羽さんと並んで、ここの女主人である仙姫様のお部屋に続く廂を歩く。

「意地張らないで入ってきちゃえばいいのに」

 絶対無理で、それは彼女の想いを否定するものだと言うことは分かってるけれど。

 でも、あの顔を見たら、本当に居た堪れない。

 そんな決意投げ捨てて入ってきなさい! って言ってやりたい。

 無理矢理でも連れてきて、琉李と会わせてあげたい。

「貴族と商人、ね」

 この地位の差は、本当に天と地ほどの開きがあって、しかも琉李は、その天の中でも最高位のとこにいる。

 自分は、その事を小さい頃から知っていて、もちろん鈴明も知っていて、けれど、鈴明は好いてしまった。その天の位置に居る彼を。

 全くといってそんな感情を彼に抱いた事が無いから分からないが、多分あの人懐っこい笑みと、兄貴分的なとこに惹かれたのだと思ってる。

 茶屋で確かめた前から、鈴明も琉李も、お互いを大切に思ってて、軽口を叩けるこの関係を好んでいた事は分かっていた。鈴明が、年を重ねるにつれて、悩んで、焦って、苦しんでいる事も知っていた。……何も出来なかったけれど。

 だから、今回の事だけは、自分の力でどうにかしてあげたいと思う。

「もう、どうしようも無いわね……」

「そうだな」

 独り言のつもりで口に出したのに、意外にも鳶羽さんが返してきた。

 少し目を見開いて、彼の顔を見上げれば、おや、という風に首を傾げた。

「どうした? 俺が同意することが意外か?」

「え、あ……はい」

 聞いてないと思ってたのが本音だけれど、鳶羽が口に出したものも意外だった。

「鈴明は、自分が悪くないというのに自分が悪いという。気にするなと言っても、この半年間、ずっと気にし続けた。――本当に、どうしようもなさすぎる」

 鳶羽さんが、離れの方を睨みながら、息をついた。

「……坊主に説明を求めるしか無いな」

「鳶羽さん。私が先ですからね」

「瑶漣がか?」

「えぇ。聞きたいことがたっっくさんあるんですから。言いたい事はさらにありますけど」

「……分かった。俺の後だと、聞けなくなるかもしれないからな」

 何か物騒な事を言い出す鳶羽さん。

「な、何するんですか?」

「ちょっと痛めつけるだけだ」

 にやりと笑いながら、さらりと言い放つ。

 うん、聞かなかったことにするわ。

 話をしていると恐ろしい言葉を言い出されそうなので打ち切り、前に向き直る。

 いつもながら思うけれど、ほんと豪勢なお邸。

 四季の草花を植えて、自然的な美しさも引き出す。

たとえば、庭。

庭に張ってある池に掛かっている箸には、所々金箔がはってあった。そんな、華やかも引き出す。

褒めるところはきりがないが、逆に貶すところは全く無い。

成金のような金臭さも全く匂わせず、自然の美しさを最優先にされた、考え抜かれた庭。

琉李の部屋だって、私の部屋の倍は広いし、使っている家具も、調度品も、どれもどれも高価そうだった。

たぶん、仙姫様のお部屋も豪勢に違いないわ。

「鳶羽さんは、仙姫様のお部屋入った事ありますか?」

「何回かな。あんまり派手では無かったな、確か」

「そうなんですか?」

「あぁ。あの方は、元は官吏の娘御らしいから、あまり飾る事は好まれない」

 へぇー、と鳶羽さんの言葉に頷きながら思う。

 そういえば、私は琉李の部屋しか入った事無かったわ、って。

 商談は、応接間に通されてやったから、ね。

「一番入っていたのは鈴明だがな。三日に一回は仙姫様の部屋に入り浸っていた」

「琉李じゃないんですか?」

「仙姫様のだ。琉李が居ようが居まいが関係なく行ってたぞ」

 琉李が聞いたら泣くわね……。

 あ、でも、琉李の事だから、もう言ってるかしら。

「だから、琉李に文句を言われたと、鈴明が不思議がっていたぞ」

 ……哀れすぎるわ、琉李。主張してるのに、全く気付いてもらえてないのね。可哀想に。同情はしてあげないけどね。

 少し前を歩いていた鳶羽さんが急に止まった。

 私もそれにあわせて止まると、鳶羽さんはこちらを向いて言った。

「さて、無駄口はここまでな。着いたぞ」

 本殿の奥の間。女主人、仙姫の部屋。

 玉の忘れは無し。大丈夫、行ける。冰梦のために、鈴明のために失敗はしないわ。

 鳶羽さんが、戸を軽く叩き、中の主人へと声をかける。

「仙姫様。鳶羽と瑶漣が、反物と衣、玉を届けに参りました」

「いいわよー、冰梦くんも来てるから入って頂戴」

 流石、早いわね、冰梦。

「失礼致します」

「失礼します」

 一礼して中に入る。

 鳶羽さんの言ったとおり、大貴族の奥様のお部屋としては、質素だ。質素すぎる。

 けれど、周りを見やれば、高名な方が書いた書や、掛け軸がそれと無く置いてあって、けして嘗めさせない配慮もしてある、趣味の良さが伺えるお部屋。

 上座のほうに仙姫様が、そして、その斜め前に冰梦が座ってお茶を啜っている。

「えーと?」

「二人共座って、座って。今、冰梦くんがくれた茶で淹れたのよ〜」

 冰梦のほうをみれば、苦笑しながら頷いた。

 とりあえず、示された席に座るが。

 こんなにも寛いでいいのでしょうか?

 悶々と私がしている間に、鳶羽さん何かは躊躇もせずお茶を頂いてる。

 度胸ありますね……。

「瑶漣ちゃん? 遠慮せず飲んでいいのよ」

 仙姫様自ら促されたので飲む事とします。

「あ、美味しい……」

 最高級の茶だというのもあるだろうけれど、多分これは仙姫様の淹れ方が上手いんだ。

 私が淹れたら、こんな上品な味にならないだろうな。

「ありがとう、瑶漣ちゃん。久しぶりね」

「お久しぶりです」

「結構会ってなかったわよね〜」

 小さい頃は鈴明につれられて入っていったこのお邸だけれど、大きくなれば商談もなにも無い時に入ることは、何となく気が止めて、ここ何年か来たことが無かった。

「あぁ、もうっ。可愛くなっちゃって」

「あ、ありがとうございます」

 満面の笑みで仰るものだから、何というか、こそばゆい。こんな賛辞は、頻繁に聞くのにね。

「それにねー、遅くなるなら遅くなるで、私は全く気にしなかったのに」

「仙姫様。そういうとこは、気にしといたほうが良いですよ。ほら、威厳威厳」

「一日遅れたって、うちは死にはしないわ。大きい口叩くようになったわね、鳶羽くん」

「お褒めに預かり光栄ですよ」

 お仕事形態の鳶羽さん。

 饒舌で別人を見てるみたい。

 目をそらすこととして、冰梦に目をやれば、四半刻前のあせり具合が見事に消えている。完了したということで安心したのかしら。

 目が合った。

 冰梦はにっこりと笑うと、軽く頭を下げてきた。

 私も満面の笑みで返し、気にしないでというように手を振ると、了解、というかのように頷いてきた。

 少しは、冰梦の役に立てたような感じがして嬉しかった。

 視線を戻せば、仙姫様は、鳶羽さんが持ってきたらしい衣を見て、歓声を上げているところだった。

「きゃあああ! もうっ、いい感性してるわ。さいっこう!」

「お気に召していただけましたか?」

「当たり前よ! 腕を上げたわね、鳶羽くん」

「ありがとうございます」

「この刺繍はどうやったの?」

「良くぞ聞いてくれました。 ここの刺繍はですね――」

 何故か、鳶羽さんの刺繍講義が始まっていた。

 仙姫様は真剣そのもので、侍女を呼んで紙と刺繍道具を持ってこさせると、鳶羽さんが言ったことを書き写し、実演を求めたり、自分でやったりと、……凄かった。

 蚊帳の外に居た私達は、どうしたものかと顔を見合わせていた。

 けれど、あまり待つ必要は無かった。

 仙姫様がはっ、と我に返り、私達のほうを向いて照れたように笑った。

「ごめんね〜、夢中になっちゃってて。ちょっと、鳶羽君に刺繍を習ってくから、退出しちゃっても良いわよ」

「では、お言葉に甘えまして」

 冰梦は一礼して、外に出て行く。

 私は。

「あの、仙姫様」

「んー、なぁに?」

 視線は鳶羽さんの下に置いたまま、聞いてくださっている。

「琉李、今居ますか?」

「……居るわよ」

 視線が私のほうへ帰ってきた。

 じっと私を見つめると、真剣そのものの顔で話される。

「あの腑抜け息子、何にもしないのよ。受身よ、受身。巽李の息子とは思えないわ! ――ひっぱたいても良いから、目を覚まさせてあげて頂戴」

「……承知いたしましたわ」

「鳶羽くんもよ。元々、そのつもりできたのでしょう?」

「衣が第一です。けれど……。失礼ながら、引っぱたくのは決定事項です。身分には天と地ほどの差がありますが、少々苛立ってましてね」

「なら良いわ。――私がやると、あの子萎縮しちゃうのよ」

 どんな事をやるつもりですか!

 突っ込みたいのを、理性で頑張って、頑張って押さえ、表情に出さないようにしていると、仙姫様がまっすぐ私を見た。

「だからね、頼んだわよ」

「はい」

「……この邸で鈴明ちゃんが見れないなんて、寂しすぎるもの」

 ぽつりと言われると、仙姫様は鳶羽さんの方に向き直った。

「さて、鳶羽くん、この続きよ!」

「はいはい――」

 私はその背中に一礼した。

 戸を閉め、振り返れば冰梦の姿。

「帰ってなかったの?」

「うん。瑶漣を待ってた」

「ありがとう。あ、でも、私今から、琉李と闘ってくるわよ?」

「闘ってくるって……」

 少し呆れ気味に微笑むと、私の隣に並んだ。

 首を傾げれば、大きな掌が頭に載った。

「無理はしないで。それと」

 ありがとう。

 耳元で囁かれた。

「本当に助かったんだ。ありがとう」

「う、うん」

「私は待ってるよ。琉李殿の部屋は?」

「離れの奥の間よ」

「じゃあ、行こうか」

 顔が、熱かった。

 

 

  目次  
inserted by FC2 system