目を奪われた。

その表現が正しいだろう。というより、それしか言いようがない。

 でも、何故か、と言われたら、答える術を彼は持たなかった。

 ぱっ、と目に飛び込んできたのだ、その子が。

「何で……」

 いつも通りのこの街であれば、その姿はさして目立つものではない。

 けれど、この土砂降りの中では、奇異と映った。

 何故だろう。

 彼女は傘もささずに、更には、屋根のある所も歩かず、びしょ濡れで、通りを歩いていた。

 夜の闇のような髪の毛は、雨にぬれ、艶やかに、濃さを増して光っている。

 東洋系かと思われたその顔は、色んな血が混ざっているらしく、良く判別できない容貌をしている。ちらりと見えたその瞳は、青みを帯びた黒色だった。

だが、整っていることには変わりはない。

 彼だけでなく、他の人だって振り向いても可笑しくない雰囲気を纏っているのだ。

それなのに、誰も彼もが、彼女がまるでそこに居ないかのように振舞っている。

 ぽっかりと空いた彼女の周りは、何処か異常さを匂わせた。

 それを彼は気づいているのだろうか。

 アランは呆けたまま、その場を突っ立っている。

「おい、兄さん、通行の邪魔だ」

「突っ立ってるのは、スト中のチューブだけにしてくれ」

「……すみません」

 壮年の紳士に言われ、彼は素直に横に避けた。

 やってから、自分の間抜け加減に気づいたらしく、あぁ……、と何やら呟く。

 シャッターが下ろされた店を背に、 少しおさまってきた人ごみを眺め、小さく彼は震えた。

「ジャケット持ってこれば良かったな……」

 夏が近いとは言え、この雨では流石に冷え込む。

 薄いスーツの上着では、防寒の役目はあまり果たしてくれない。

 本当はスーツでなくても良かったのだが、意地を張ってこれにした結果が、この寒さである。

 うーあ。

 彼は少し項垂れた。

 こんな事ならもう少し考えとくべきだったと。

 重いからって、ジャケットを放置してくるんじゃなかった。

「……って」

 ばっ、と先ほどの少女を探す。

 彼女のための道が出来ているのだから直ぐ見つかった。

 姿が近くになって見えた。

 傘をさしてないから、当たり前のように濡れ鼠な彼女は、すごく、薄着だった。

「うっわ……」

 見ただけで寒い。

 彼は両手で腕を擦った。

 黒のキャミソールの上に、緩い感じのロングTシャツ。もちろん、半そで。

 下だって、ショートパンツに、ヒールのあるサンダルだ。

 ここは夏ですか、この街の温度差舐めるんじゃねぇぞ、と言った具合である。

 アランも、見てらんね、と目を覆う。

 あれでは、なんというか、もう、寒い、という所の騒ぎではない。

 ちゃんと傘させ、むしろ暖かい格好をしましょう、と説教したくなる類の服装だ。

「誰か突っ込めよ……」

 誰も見ようとしない少女を見つめ、彼はため息をついた。

 謎過ぎる。

 保護者も、何であんな格好で外に出させた。

 ――て……。俺もなにやってんだか。

 そっちの方が謎だ。

 内心呟きながら、彼はその疑問を握りつぶした。

 気になるものは気になる。そうなんだから仕方ない。

 胸ポケットに違和感。

バイブが鳴っていた。

「……また……?」

 胡乱気に彼は首をかしげた。

 すでにバイブ音は止まっている。

 ポケットにいれてあった携帯を取り出す。

 それは着信ではなく、メールの受信を伝えていた。

 サブウィンドウを見て、うげっ、とうめき声。

「フェルかよ」

 いやそうな顔で、アランは携帯を開けた。

 ボタンで操作し、受信したメールの内容を見、一気に脱力した。

 ――事の顛末を後でじっくり話すこと。一時間以内に来なかったら、明日は全部アランの奢りで。

 飾り気のない文面で、――むしろあったら怖いのだが、フェルはそのような事を書いていた。

 冗談だと思いたいが、アランには生憎そのようには思えなかったらしい。

 あいつ大食漢だからなぁ……。

 手早くボタンを操作する。現代っ子であるから、その手は結構早かったりする。

 送信を見届けると、彼は遠い目で何かを見つめ、パタリと携帯を閉じた。

 ちなみに、ボリスからのメールも着ていたらしいが、内容が予測できる、とアランは開けようともしなかった。

 フェルには、ただ簡潔に、善処する、とだけ送ったようではあるが。

 そうしているうちにまたもう一通きて、今度はボリスか? とアランが首をかしげていると、またもやフェルで、またまたいやそうに彼は開ける。

 ――善処はいらないので、完遂すること 以上

 黙って携帯を閉じるアラン。

 そのまま鞄の奥にしまい、ご丁寧にも電源まで切ってしまった。

 イヤだったらしい。

 腕で顔を覆う。

 彼の脳裏には、一人の青年の顔が浮かんでいた。

 アランの同僚。 

「ごめん――」

 フェルが何故時間に固執してるのかも、理解しているつもりだ。

 この行動が、時間稼ぎ、という意味合いも入っていることも自分で自覚していた。半分は、少女に対する好奇心だけれど。

 誰かの名前を呟き、自嘲気味に彼は笑った。

「あ……」

 いつの間にか、道がアランの前に出来ていた。

 彼が感傷に入っていた間に距離が詰まっていたようである。

 固まっていると、少女がアランの目の前を通り過ぎようとする。

 ――もう、こうなったらやけだ。

 畳んであった折り畳み傘を広げ、少女の前の走りよる。

「……え?」

 近づいて分かったこと。

 少女の顔が何も映してなかったこと。

 体が何故か傷ついてたこと。

 瞳が涙を溜めていたこと。

 その瞳が、彼を見た途端、驚きで染まったこと。

 ぐっ、と止まりそうになった足を動かし、アランは自らの折り畳み傘を差し出した。

「傘どうぞ、お嬢さん」

「……え、と? あの」

 少女の真っ黒な瞳が丸くなっていた。

「女の子が雨の日に傘ささずに歩いてちゃダメだ。受け取って?」

 当然のごとく困惑している少女の手に折り畳み傘を渡す。

 少女は握ってしまったことに、慌てながら、ぐっ、と彼の方に着き返す。

「も、貰えない。だって、貴方、スーツじゃない」

 何気無く腕で涙を拭い、彼女はぶんぶんと首を振る。

 その度に雫が振るい、雨と同化した。

「雨だと服が汚れるって、ははう……お母さんがいってた。スーツ濡らしちゃダメ!」

 実際の所、この街の雨は何も汚さない。

 都会の癖して、この街は緑がたくさんあり、雨がそこまで汚くないのである。

 少女が思い浮かべている都会であれば、その主張は間違ってはいないのだが。

 アランは、当然の事ではあるが、その事実を知っていてた。けれども、配慮したのか、否か、あえてそれには触れなかった。

 風邪ひいちゃう、とかじゃないんだ、と可笑しく思いながらも。

「それなら、お嬢さんもだろ?」

 もっともなことを少女に指摘すれば、彼女は困ったように顔を崩す。

「反省したい気分だったからいいの。だから受け取れない」

 一歩、二歩と退いて、再び雨の中に戻ろうとする少女の腕を、彼はため息混じりに、掴んで引き止めた。半分不審者だなぁ、とか思いながら。

 怯えられたらそこで離れようと思っていたアランだが、一向にその目はないので、受け取ってもらうまで待つつもりでいた。

 ほんと、何やってんだか。

 呆れ混じりの笑いを自分に向けた。

 寒いのか、少女の肌は粟立っていて、それならもっと暖かい格好しろよ、と思うアランだが、それ以前に外に投げ出すのはいただけない。

 一向にやまない雨に、少女に聞かれない程度に舌打ちしながら、ふと一つの事に思い当たった。

 ――そういや、おっさんたち何も言わないな。

 先ほどまではなにやら言ってきた人達が何も言わない。

 好都合ではあるが、なにやら不思議だ。

 

「反省するのは雨にぬれなくても出来るだろ」

「でも……」

「鳥肌立ってる癖につべこべ言うな。ほら」

 ぐっ、と押し出す。

「それに、受け取ってもらわないと、俺、同僚に怒られるんだ」

「……え?」

「あと一時間でオックスフォードに着かないと半殺し、って同僚が」

「放っておいてくれればいいのに……」

 恨めしげに、彼女はアランを弱く睨むが、彼はそしらぬ顔である。

「私がこれ貰っちゃったら、貴方はどうするの? 風邪引くよ?」

「今それ聞くか、お嬢さん。後、お嬢さんだけには言われたくないな」

 そんなカッコして、と彼が指摘すれば、ちょっとだけ気まずそうに、少女は視線を背けた。

「と言うわけで、受け取って。そうすれば、俺は安心してさっさと退散するよ」

「……無くて大丈夫なの?」

「大丈夫。駅までいけばどうにでもなるから」

「そう……」

 恐る恐る、といったように、少女は傘の柄を握る。

 根負け、と言ったところか。

 それを見届けて、ようやくアランは安心した。

 目の毒すぎたのだ。彼女の格好は。

 体にびったりと張り付いた服を纏う女の子に視線を向けない男なんぞいない。

 ジャケットあったら、それだけで済んだのになぁ、と今更な後悔をしつつ、彼は一歩引いた。

 結構な時間が過ぎていた。

 フェルが指定する時間につくには、もうそろそろ出ないと、果てしなく恐ろしい事が待ち受ける事となってしまう。

 きょとん、とする少女に彼は忠告染みたことを言ってやった。

「次の雨には厚着するよーに」

「は、はーい」

「ん。――じゃーな」

 ひらひらと手を振り、屋根のある場所へ移動するアランに、彼女は後ろから声を掛ける。

「すみません!」

「は?」

「私、見えたの?」

 奇妙なことを聞く。

 首を捻ってから、一応は頷く。

「見えたから俺はお嬢さんにあったんだと思うけど?」

「そう、か。そうだよね……」

 口の中でごにょごにょと、言葉を捏ねると、彼女は顔を上げて笑った。

「ありがとう、親切な紳士さん」

 くるりと折り畳み傘を回転させて見せ、踵を返す。

 その背中にアランも笑いを含ませて叫んだ。

「今度は薄着でいるんじゃないぞ!」

「分かってるー」

 お互いが口元に笑みを浮かべて、反対方向にと歩く。

 だいっ嫌いな人ごみを掻き分け、駅にとたどり着く。

 ――今、駅。五分後に電車。

 簡潔に纏めて送信ボタンを押した。

 すぐに返ってきたメールには、後で事の顛末を語るように、という事と、駅で待ってる、という事だけが書いてあった。

 それを確認だけして、再び電源を切る。

 まだ笑みの残滓が残っていた。

 

 

 

 一方の彼女は――。

「……びしょ濡れだな」

「そーね。ちょっと反省してた」

「反省ならぬれなくとも――」

「それは、さっき紳士さんに説教されたところなの、兄さん」

 どこからともなく現れた青年に、少女はアランから貰った折り畳み傘を嬉しそうに回しながら答える。

 青年は訝しげに彼女を見たが、すぐに気を取り直し、彼女に告げた。

「母上がお呼びだ」

「お母さんが?」

「あぁ」

「……お説教?」

「さぁ? ただの宴会じゃないか?」

「それ、二月前にもやらなかった?」

「許してやれ。馬鹿騒ぎが好きな連中がいるんだ」

 呆れていることを隠さない少女の頭を軽く叩いてやりながら、青年は言った。かくいう青年の口にも、苦笑が漏れ出ていたが。

「にしてもなぁー」

 お酒が呑めない彼女にとっては、宴会は苦痛以外の何者でもなかったからだ。

 だから、馬鹿騒ぎと称して、あまり出席はしたがらなかった。

 それを宥めながら、青年の目がすっ、と細くなる。

「あまり、期待するなよ」

「……分かってる」

「本当か?」

「多分ね」

 分かんないよ。

 そう困ったように顔を歪ませると、彼女はきゅっ、と傘の柄を掴んだ。

「信じたいんだけどなぁ」

「やめとけ」

 にべもない青年の口調に、えー、と不満を漏らし、堅物―、とつっつきながら、彼女は足を動かし始める。

 彼女の家の方角へと。

「いこっか、兄さん」

「あぁ」

 彼女の姿も、雨のこの街のどこかに消えていった。

 








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