青年はバスから降りて、呆れたように言った。

「皆で頭を洗え、っていう采配か……?」

 後ろからぞろぞろと降りていく紳士達は、さらに皮肉気に言いながら降りていく。

「いいや、フケを流すくらいならこんなにもいらないだろう? 不景気を洗い流すにはこれだけ水が必要なんだ」

「むしろこんなんで流れるかね」

「シャンプーでも持ってきたら流れるんじゃないか?」

「いいや、きっと頑固なフケなのさ」

「お前の女房よりもかい?」

「それはない。女房はこんなんで流れていかないだろうからな」

 あはは、と降りていく紳士達を横目に、彼はため息をついた。

 ――酷い、雨だった。 

 昨夜からの愚図り模様から予想されていたとは言え、今日のロンドンの天気は最悪だった。

 いつも通りのにわか雨かと思いきや、朝からバケツをひっくり返したように降るのである。時折、音は無いものの、雷が空を照らしている。夜には音さえ伴っていたらしい。

 地下鉄へと続く道を歩く人達はただ速くと、足を運び、嫌な日だな、と口々に呟いた。

 長く設計してある屋根の下は、時間帯もあるだろうが、人で溢れかえっていて、さっさと歩けよ、という舌打ちも所々で聞こえた。

 開き直って悠然と歩く人もいたが、屋根が途切れてしまった所では、小走りである人が多数だ。しっとり位ならいつも通りだが、びしょぬれならば話は別なのだろう。

「着くかな……」

 人ごみに酔いそうになりながらも、なんとか歩いていた青年が呟いた。

 見れば、茶色がかかった金髪と、苦しそうに着ているスーツがしっとりとぬれており、最初の方は強行突破しようとした後が窺えた。人ごみを避けようとしての行動だと思われる。

が、それでもびしょ濡れではないことを鑑みると、すぐに止めたほうが良いと判断したのだろう。

 彼の鞄の中に運よく折り畳み傘が入っていたお陰で、人ごみの渦中には入ってはいなかったけれど、慣れない人ごみは、中に入っていなくとも、彼を弱らせたようである。

 屋根の下ほどは居ない道を歩きながらも、腕時計を見やる。

「微妙……」

 愛嬌を滲ませるその顔を、うっ、と歪ませた。

 どうやら約束の時間があるらしい。

 案の定、携帯電話がバイブで着信を知らせると、歪ませた顔を、さらにくしゃり、とさせる。

 三回位それを聞いた後、ため息をつき、傘を持っていない方の手で鞄を探る。見つけた時にはすでに十回目のコールで、なんで切らないんだよ、と彼がぼやく。

「はいはーい。俺ですがー」

 気のない声。

 彼としては、声さえ出したくない位だったのだから、出ただけでも勘弁して欲しい、というのが心情だった。

 しかし、それが逆に相手側の勘に触ったらしく、大音量が携帯から鳴り響いた。

『何をしているアラン!』

 思わずアランは耳をふさいだ。

 何事か、と見てきた通行人に、すみません、と言い、そしてため息と共に電話越しの相手に告げた。

「ボリス、煩い。通行人の迷惑だ」

『……すまん。では、なくて! 何処をほっつき歩いている』

 若干押さえられた声が彼を詰問する。

 それでも煩くて、彼は携帯電話のボタンを何回か押し、音量を調節した。奇異の目に耐えられなかったらしい。

 ようやく普通になった音量に一息ついて、アランは首をかしげた。

「なんだっけ?」

『お前は――っ!』

 激昂の声。

 音量を小さくしたため、そこまでの大きさじゃない。

 その事に満足げに笑いつつ、さらに捻る。

「怒るなって。お前が怒鳴るから何話してたか忘れたじゃんかよ」

『それはお前の責任であって、俺の責任では断じてないだろう』

「だから、要因はボリスだろ?」

 折り畳み傘が風に煽られて、変な音がした。

 すっごい雨―。

 彼は曲がりかけた傘の骨を押さえながら上を見る。

 同僚の声がアランの耳を通り抜けるけれど、いつも通りであるので、彼は特に気にしていなかった。

 滑らないように気をつけながら、彼は目指す駅までの道を歩く。

 あぁー、これは本当に間に合わないかもしれない。

 時刻表なんて思い浮かべても、このロンドンの地下鉄が定時通り来るわけがないのだから、そんな行為は無意味だ。でも、所要時間の概算位はできるから、それをやると。

――結構カツカツだな……。

それ以前に、駅がストを起こしていたら、先ほどの道を逆戻り。バスで違う路線の所までいかなくては行けなくなる。

けれども、バスよりも、電車の方が速いのだから、今の時点で時間がカツカツなら、バスに乗っていくとすると、遅刻は間違いないものとなる。

そこまで考えて、彼はため息を一つついた。 

「ひでぇ……」

『酷いのは君のほうだよ。ちゃんと聞いてる? アラン』

 大音量が消えて、逆に聞こえずらくなった。

 少し離し気味だった電話を耳元に寄せ、聞き覚えのある声に、あれ? と問いかける。

「フェル?」

『俺以外誰がいるって言うんだよ」

「ボリスが」

 そこの時点で彼はすでに電話の音量を普通に戻していた。

 ボリスでないのなら、普通の音量で特に、というか普通は問題ないのだ。

 フェルと呼ばれた青年は苦笑のようなものを滲ませながら、向こう側から声を発した。

『俺はそこまで声低くないよ。ともかく、そこ何処?』

「えーと」

『オックスフォードついた? ついたなら迎えにいくけど』

 相手が目の前に居ないというのに、アランはそっぽを向いた。

 そうして、青色の目を落ち着き無くはしらせる。彼もやばい、ということは理解しているようであり、場所を口にしたら怒られる、ということも、きっちりとわかっているらしい。

 かかっている標識には、フィンズベリー・パークと。

 先ほどから目にしているにも関わらず口に出さないのは、多分そういう理由だろう。

 それにしても、随分と応対が違う。 

 ボリスに対しては特に目立った反応をしていない彼であるが、フェルという青年に対しては何処か恐れているような、そんな動きが出ている。

『それじゃあ、駅? とりあえず場所だけでも言ってもらわないと困る』

 若干苛立ったような声が響く。

 アランは目を逸らしているが、そんなものは電話越しの相手に伝わるはずもない。

 何回か、あー、だの、うー、だの、意味のない声を上げた後、がっくりと肩をおとし、観念して彼は地名を口にした。

「フィンズベリー」

 少し間があった。

 アランはこくりとツバを飲み込み、歩く速度を上げる。

『フィンズベリー……? あぁ、フィンズベリー・パークか。じゃあ、後十五分位でつくかな。ヴィクトリア線?』

 それなら間に合うかなー、とフェルが言うのを聞いて、額に汗をだらだらとかくアランである。無論、暑いからではない。

 フェルは思い違いをしている。それで、まだ怒ってないだけ。

――言ったら怒られる。

確信しながらも、言わなかったら更に怒られる、とアランは掠れた声で彼に告げた。

「……あのさ、フェル」

『ん? 使うのチューブじゃなかった?』

「いや、チューブだけどさ」

『じゃあ? ストでも起こってた?』

「多分、起こってないと思う……」

 着いていないので、その事はアランも願うばかりである。

『え、多分? 駅じゃないの? アラン』

 ――ほら、気づいた。

 天を仰ぐ。

 未だ空は分厚い雲に覆われていて、晴れる様子を全く見せてはくれない。

 本当に、嫌な日だ。

 こんな日じゃなくても。

『アラン、正直に話せ。なんか食い違ってる』

 妙に据わった声が耳に届く。

 あぁ、切りたいなぁ、という願望に襲われるが、そんな事をしようものなら、会った時に説教が待っているのが目に見えている。

 仕方無く彼は自分の現在地を告げた。

「まぎれもなく、フィンズベリー」

『駅じゃなく? 周りに見えるのは?』

「クリスなんたら公園をさっき通りすぎた」

『……まだ駅ついてないんだ?』

「確かにまだ歩いてる」

『ざけんな! 何処ほっつき歩いてるんだよ! アラン、あと一時間だってこと分かってる?』

 はあぁ……。

 深いため息が聞こえ、すっかり萎縮気味なアラン。

 すでに駅の外観は見えていた。

 のどかな風貌な癖して、何故かそこでもやはり人ごみが出来ていて、うっ、と引き気味になる。

『何でそんなとこにいる? とっくに駅はいっててもおかしくないだろ?』

「人ごみが酷いんだよ……」

『はぁ? フィンズベリーって静かな街だって……』

 訝しげなフェルだが、アランは返答をしらない。

 人ごみをさらに発見して、さらに意識消沈するだけだ。

「俺に言うなよ。なんか、もういやだ……」

『帰ったらチームから消すよ』

「帰らないって。流石にそれはしない」

『頷いたら半殺しにするつもりだった、ってボリスが』

「……ボリスが?」

『ボリスが。後、一時間後に着かなかったら、ぶっ殺すって、ボリスが』

「……ほんとにボリスが?」

『やだなー、俺がやるわけないよ』

 いやお前がだろ、と内心突っ込む。

 口に出して言わないのは、さらに不機嫌にさせるのが嫌だからだ。

『相変わらずの人ごみ嫌いで』

「田舎暮らしですみませんねー」

『吐いてない?』

「吐くか」

『最初はいてたのはどこのどいつで?』

「……俺です」

『そうだよね。アレにはびっくりしたよなー』

 怒ってないかと思っていたが、違った。

 普通に怒っていた。

 あぁー性質が悪い。

 長閑なはずのこの街の人の多さに辟易し、呆れながらも彼は歩く。歩く以外にすることがないから。

 携帯から嫌味が続いていた。その後ろからは、ボリスの声も煩く聞こえていて、少し可笑しかった。

『――まぁ、その中歩いてこれるだけ進歩か』

『ふん、貧弱が』

 二人の声が聞こえた。

 どっちもなんか酷い。

 答えずにはぁ、とため息を漏らす。

「……ぁ……」

彼の動きがピタリと止まった。

あれだけ急いでいたのに、足も止まり、適当に打っていた相槌も消えうせる。

ただ、一点を見る。

 相槌が消えたためか、向こう側の彼らも気づいたらしい。

『アラン?』

 返答はない。

 切れた訳ではないので、もう一度彼はアランに呼びかける。

『アラン? どうした?』

「あ、悪い」

『どうした? なんかあった? それとも、綺麗な女の子でも見つけた?』

 からかい気味に聞いてきた同僚に彼は。

「……悪いけど切るな。後でまたかける」

『あ、ちょ――』

 ブツン、と切られた通話。

 ――なんか言われるかな……。

 怒られはしないとは思うが、何かは言われそうだ。

 それに、あながち間違いではなかった。

 彼の視線の先には。

「……ジャパニーズ?」

 黒髪の少女がいた。






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