4.       解ける

 

「え?」

 彼の瞳が凍っていた。

 しまった。

 口には出さないけど、本当にしまった、って思ったの。

 ルブランから目を離さずに、私はどうやって逃げ出そうかぐるぐると考える。

 彼の視線がこちらにむいた。

「委員長?」

 彼がその名称を呼んでも、今日ばかりは突っ込まない。

 ミスった。

 脳内をその言葉が旋回する。

 どうしようもない。

 いつの間にか、水がこぼれるように、言ってしまっていたらしい。

「……携帯鳴ってるよ」

「あ」

 胸ポケットの携帯が、バイブでメールが来た事を知らせている。

 春日から。

 ――了解、ありがとね。

 絵文字もない、簡素な文体に目を通し、楽しんできて、と返信をしておいた。

 携帯を閉じ、仕舞っても、視線は外れていなかった。

「……用事があるから帰るわ」

 誰に言うまでもなく、私は呟いた。

 もちろん、嘘。

 場所を変えるだけだ。

 読めなかった本を鞄の中に丁寧に仕舞い、予習に必要な教科書も積める。

 少々重くなった鞄を肩にかけ、椅子から立ち上がった。

「……何?」

 腕をつかまれていた。

「キミが俺に用があるんじゃないの?」

 ひやりとした視線。

 でも、口元は笑っている。

「嘘つき」

 再度私はその言葉を舌に乗せた。

 もう、こうなったらヤケだ。

 にっこりと笑って、視線に対抗して、微妙に緩くなった手を振りほどく。

 幸い、この小さな戦いは、おしゃべりに夢中な皆には目に入らなかったらしく、視線らしきものも何も感じなかった。

「お先に」

 申し訳程度に言って、私は教室から外に出て行った。

 向かうは、誰も居ないだろう、空き教室。

 確か、二階の奥にあったはず。

 頭の中でこの学校の見取り図を展開させつつ、私は別の事を思う。

「やっちゃった……」

 右手で額を覆う。

 声に出すつもりは無かった。 

 全く。

 これっぽっちも。

 その事は、“判別終了”、日課の破壊を意味するし、あの人と私に架け橋を渡す行為。しかも、最悪な感情を伴って。

「あーあ……」

 とぼとぼと階段を下る。

 幸いにして、微妙な時間なせいか、廊下をあるく生徒はほぼいなかった。

 特別教室がならぶ場所だからかもしれない。

 どちらにせよ、好都合。

 今は、あまり人とは顔を合わせたくなかった。

 絶対酷い顔してるから。

 静かな場所に行きたい。その一心で、私は化学室の隣にある、一つの空き教室に向かう。

 ――壊したのは、私。

 あの驚いた顔。一瞬でそれは消えたけど、きっとこれからは、私を“認識”するだろう。そういう存在として。

 ならば、あの最後の“嘘つき”は誤った手だったかな。

 ……交じり合わず、判別してるだけでよかったのに。

 これまで通り、“外野”として、判別できなくなった。

 それだけの事で、私が判別するには問題は特にないのに。

 何故か、良く分からないほど、私は落胆していた。

「ふぅ……

 ガラガラとなる扉を開け、空き教室の中へと滑り込む。

 重たい鞄を机に置いて、私はそのとなりの席にと座った。

 そういえば、読みかけの本があったっけ?

 放心しかけてた私は、ルブランの事を思い出していた。

 丁寧に仕舞ってあった本を取り出し、深緑の表紙にそっと触れた。

 そうしたら、何だかちょっとだけ落ち着いて、張っていた唇がふんわりと緩まった。

「へー」

 身体が震えた。

 先ほど振り切ってきた声の主だ。

 恐る恐る扉の方へ視線を向けたら、扉に寄りかかるようにして彼が立っていた。

 少しだけ首を捻る。

 何だか、いつもとは違う笑みのような気がしたのだ。

「あんた、そんな笑い方するんだ」

「……笑ったら悪い?」

 少し挑戦的な口調になった。

 彼は緩慢に首を振る。

「いーや。いっつも、こーんな顔してるから意外だっただけ」

 そういって、目をぴーんと吊り上げる。

「……そんな顔してた?」

 しっくりこなくって首を傾げたら、その顔その顔といわれた。

 思わず目に手をやる。

 ――あ。

「……嘘つき……」

 さっきの調子は嘘じゃない……。

 むっ、としてみれば、あーばれた? と嬉しそうに笑っていた。

 意味が分からない。

 隣にまで歩いてきた彼は、開きっぱなしの私の本を手に取る。

 声を出す前に取られていて、私は手をひらひらとさせた。

「またルパン?」

「そうよ」

「うわ、前とは違う奴じゃん」

 なっげーなぁ。

 あきれたように彼はパラパラとページを捲っている。

 でも、顔と目は正直でキラキラと、面白そうに光っていた。

 怒ってない、何にも言ってこない。

 その事に安心すると同時に、いつもの疑問が頭をもたげる。

 何でそんな風に嘘をつくんだか。

 私からすれば分かりやすすぎる嘘を吐いている彼にあきれてしまって、取り返そうとした気持ちが萎えてしまっていた。

「好きなの?」

「まっさかー。委員長も聞いてただろ?」

「文学嫌いって?」

「そうそう」

 こうしてる間も本から目を離さない癖に。

「マンガなら好きだけどさ」

「……嫌いな人なら、そんな風に読んだりしないと思うわ」

 ため息まじりに告げてあげれば、彼の肩がゆれて、それから目を見開いて、こちらに視線を寄越した。

「そんな、風?」

「輝いてるじゃない、目」

「そうかな?」

 困ったように目を細める。

 ――これは、ほんとかな?

 良く分からなくなってきた。

「貸して、あげようか?」

 ぐるぐるしだした脳内が絞り出した言葉はそれだった。

 読みかけ、とは言え、何回も読んだ事のある本。

 貸すのには全く問題は無いので、どうってこともないのだが。

 彼は迷ったように本を見つめてる。

「俺、嫌いって言ったけど?」

「……嘘つき」

 零れた三回目。

 今度こそ彼は表情を消していた。

 ――ま、まずい?

 ある意味絶好調な舌を呪う。

 この男が、外面通りの奴なら、微笑んで終了だろう。

 でも、私が知ってるこの人は、中身が全く分からない人。

 ちょっとだけ腰が引けた。

 外面は面白そうな顔で、でも何を考えているか分からない眼をして彼は私に手を伸ばし。

「あんた、面白いなぁー」

 頬を人差し指で押してきた。

 おー、ぷにぷにするー、と訳分からない言葉を吐いて、彼は楽しそうに笑った。

「何かされると思った?」

「そんなこと!」

「腰引けてる癖に」

 ちょん、と押されれば、簡単に椅子に座ってしまっていた。

 顔が熱くなる。

「うわ、顔真っ赤」

 ほれほれー、と突っつかれるのに我慢できなくなり、ガードしようとしたら、その途端にやめられる。

 ……思ってたけど、思ってたけど。意地悪だ……。

 凄く楽しそうに、嬉しそうな目をして彼は笑う。

 何が楽しいのかさっぱりな私は、きっと仏頂面。

 一頻り私“で”遊んだ後、彼は急に真面目な顔になった。

「何で分かった?」

「何で、って言われても」

 見え見えじゃないの?

 私が首を傾げれば、彼も首を捻る。

「マジで?」

「本当に。目とか、矛盾とか見ればすぐ分かるに決まってるじゃない」

「……エスパー?」

「何でよ」

 繰り返し、本当かどうか聞いてくる彼にいらっ、ときて聞いてみれば、途端笑われる。

 ますます眉間に皴を寄せると、ごめんごめん、とこめかみに指を刺された。

 ……何気に痛い。

「この猫かぶりさ」

「猫かぶりって……、嘘が?」

「まぁ、そういう事にしとくか」

「それで?」

「……親を除いて、滅多にばれたことない」

「それは、皆さん節穴だったのね」

「……委員長の目がおかしいんじゃねーの?」

「でも、ばれたことはあるんでしょう?」

「まぁ」

「なら、周りがそれだけ見てなかった、って話よ。貴方の事」

 こともなげに言って、鞄の中のもう一つの文庫本に手を伸ばす。

 もう一冊、家から持ってきたのが入っていたはず。

 鞄に伸ばした手がつかまれる。

 今度は何?

 ため息混じりに睨みつけたら、彼はにやりと笑ったのだ。

「委員長は見てたんだ」

 私の動きが固まった。

 彼の視線から目を背ける。
 
 大きく息を吸って、それから無理矢理笑い、前のように答えた。

「さぁね」

 彼には見透かされてるような気がした。

 

 ――とうとう交わってしまった。
 






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