奥の私室にて、帳簿をつけていたところ、兄ぃが現れてさらりと重大な告白をされた。

「え、鳶羽兄ぃも宣言しちゃったの?」

 兄から聞かされた衝撃の発言。

 お得意様に自分から何やってるんだ……、と思って軽くにらめつけてみるが、彼には全く効果が無い

 むしろ、さっきよりも表情が生き生きとしていて、何となく怖い。

「なのに何で、そんなにも嬉しそうなの?」

「いや、坊主とうちあってな」

「はぁ? そんで?」

「ボコボコにしてきた」

 晴れ晴れというので、効かないと知りつつ、脛を蹴り上げておいた。

 いつもなら恐ろしくてやらないけれど、今回ばかりは兄ぃが悪い。

「良家の子息に何やってるの」

「? 八つ当たりをしてきただけだが?」

 ……弁明になってないよ、兄ぃ。

 思わず、じとっとした目付きになってしまうが、兄ぃは気にした様子も無く、朗らかに笑ったまま。

 

 そして、あたしの頭に手を載せて、言ったのだ。

「俺も同類な」

――っ!」

「だから、気にするなよ、お前も。ちなみに俺は全くもって罪悪感がない」

 本当に気にしていない様子で、兄ぃは手をひらひらと振って仕事場へ戻っていった。

 残念ながら、まだあたしは戻れそうにない。

「そんな」

 そんな気遣い、いらなかった――っ。

 せっかく離れれたのに、離れようと思ったのに、いとも簡単に彼は崩してしまった。

 こんなもの、障害でもなんでも無い、と証明するかのように。

「皆して、あたしにどうしろって?」

 あたしが、自分で決めたんだよ?

 そりゃあ、苦しくて、寂しいけど。

 自分で決めたんだよ。

 それを、覆すの?

「分かんないよ」

 自分のことなんて、どうでもいい。

 どうでも良いって思って欲しかった。

 ソレくらいの器じゃなければ、彼はやっていけない。

 あたしの存在は重荷になるんだ。

 彼の立場からしたら。

……彼は忘れてしまった?

お互いに、お互いの立場の頂点に行くと話したことを。

その時に思ったのだ。

あぁ、もう彼の隣にはいられないな、と。

彼が頂点を目指すならば、隣は貴族の姫様がお似合いだ。

あたしみたいな商人ではなく、玲洵さんみたいな貴族のお姫様こそ、彼の隣はふさわしい。

だから、あの斬ったことは、良くも悪くも、ひとつのきっかけとして作用した。

……っ」

 まだ、感触は残っている。

 自分の手をすり抜けていった、彼の血。

 真っ赤に染まってしまった、彼の衣。

 あれは、一生忘れない、と思えるほどの衝撃。

 正直、彼に会うのが怖いから逃げている、と言っても過言でもないかもしれない。

 理由を盾にして、会うのを逃げている。

 兄ぃ達に毎回諭されているから、そんな風に思い出したのか。

「でも」

 あたしが邪魔なのは、変わりないよね?

 表から、鷹羽兄ぃの声がした。

「鈴明。水蜜楼の姐さんが来てるよー」

 はっとして顔を上げる。

 そういえば、兄ぃは今日は休暇で、店を手伝ってくれてるんだっけ。

 いつの間にか滲み出ていた涙を拭い取り、帳簿を抱えて表に出る。

「兄ぃ、ごめん」

「うん、いいけど。――大丈夫?」

 鷹羽兄ぃ。

 あたし達兄妹の二番目。

 とっても頭がよくって、塾へ通うのにも、向こうがぜひ来てくれ、という事だったから全く払っていない、という秀才ぶりだった。

 今は、見事殿試を通り、礼部の主事をやっている。

 平民からの出世にしては、かなり良い位置らしい。

 さらに、彼からも目を掛けられている――何様だ、といいたくなるけど――らしいから、近々刑部に引き抜かれるかも、と言っていた。鳶羽兄ぃが。

 こんな兄ぃは、あたしの勉学の先生で、まさに兄さん、という感じの人。

 そんでもって。

「キツイなら奥で休んでいてもいいよ?」

 ……兄妹の中で一番鋭い洞察力を持つ。

「僕は今日、暇だからね。鈴明は休んでいてもかまわないけど」

「ううん。兄ぃは、せっかくの休みだし。あたしは大丈夫だよ」

「そっか。……無理は禁物だよ」

「分かってる。姐さんは」

「客間で待たせてる。行ける?」

「うん。兄ぃ、帳簿任せてもいい?」

「久しぶりの数字か。間違えるかもしれないけど、それでもいいなら」

 不安げに笑う兄ぃだけど、そんなのは杞憂すぎる。

 鳶羽兄ぃや鴦羽兄ぃが盛大に間違えていたとこは見てきたけれど、この人が久しぶりだとしても、間違える姿など見たこともない。

「絶対ないっ。兄ぃだから安心して任せれるよ」

「ありがとう。行っておいで」

「うん」

 応接間へとあたしは足を急がせた。

 だから、表での会話をあたしはしらない。

 

 

「兄さん」

「どうした。鷹」

 後ろにいた鳶羽を振り返ることもなく、鷹羽は呼んだ。

 それに少し苦笑しながら、鳶羽は返す。

「鈴明は、いつからあんなにやつれてました?」

 鷹羽は官吏。

 今の時期は殿試などの準備、予算での他の部署との戦いなどで忙しく、半年余り、全く休んでいなかった。

 それに加えて、鈴明は外へ行ったりする事が多かったため、まともに会ったことすらなかった。

「半年、前だな」

「しまったな……。丁度僕が忙しかった時だ……

「鷹羽、お前が悪いわけじゃない。気に病むな」

「でもっ。あの子があんな顔をしているのは……っ」

 武芸、勉学共に、幼い頃から見てきた妹。

 忙しいときでも、にこにこと笑ってやってくるのを見れば、疲れも忘れて教鞭を取れた。

 鷹羽にとって、大切な、大切な妹。

「俺も耐えれん。――が、お前は、接触方法があるだろう?」

 暗に琉李を指す鳶羽。

 それだけで諒解すると、少しだけ悔しそうに応接間の方を見た。

「鈴明の事はまかせておけ。お前は、あのクソ坊主の方に働きかけてくれ」

「分かりました。琉李に発破を掛けておきますよ」

「いや、発破はいい」

 それに顔を顰め、鷹羽はようやく兄のほうを向いた。

 視線がさっさと答えろと言っている。

 穏やかそうに見えて、案外激しい気性を持つ彼に、苦笑を禁じえないまま、鳶羽は先ほどの出来事を洩らす。

 最初は感心したように聞いていたのだが、兄の行動を聞き、呆れたように見つめる。

「考えなしですね……

「言うな」

「でも、同じ立場だったら、僕もやってたから何も言えないですけど」

 いやいや、お前だったらもっと酷いだろう。

 そんな突っ込みをいれたかったが、彼を煽る事など、百害あって一利無しなので、口を紡いでおくことにした。自分に害が及ぶなんて真っ平だ。

「翠刑部侍郎に言っておきますよ。黒幕をさっさと探し出して、鈴明を悲しませるなって」

「黒幕?」

 分家の奴が、という事では。

「無いに決まってるじゃないですか」

 呆れたように弟が言う。

「仮にも翠ですよ? 身内に一番斥候を置かないでどうするんですか。その斥候を欺けるような後ろ盾もなくては、あんな計画、仙姫様に止められますよ」

 巽李様、といわないあたり、あの女人の恐ろしさをよく知っている。

「多分、黄門侍郎あたりじゃないんですか。少なくとも、位的にはその辺でしょう」

 考察をすでに立てているあたりが、彼らしい。

……坊主の事は任せる」

「えぇ。分かってます、よ?」

 にっこり笑う彼の後ろから、なんとなく薄黒い物が伺いしれた鳶羽であった。




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