鈴明が翠邸に出向かなくなって半年が過ぎた。

 相変わらず仙姫からの要請はあったが、鈴明は固辞し続けていた。

「おい、鈴明。また、翠の奥方から注文が入ったぞ」

 奥の間で出来上がった衣を畳んでいると、店番をやっていた長兄――鳶羽がやってきた。

 鈴明は動揺を見せず頷いた。

「そう。鳶羽兄ぃ行って来てよー」

 鳶羽は、少し呆れたように、顔を顰めた。

「また俺か? あの事は俺も聞いたが、お前が責任を感じる要素は一つも無かったぞ? だから、無理せず行って来たらどうだ?」

「無理はしてないよ、鳶羽兄ぃ。でもさ、貴族様に刃向けて斬っちゃったんだからさ、こうやっておかないと、なんか言われそうでしょ?」

 手元にある衣から視線を外さず、鈴明は作業を続ける。

 それをみて、鳶羽はため息をついた。

「嘘だな」

 一瞬、衣を畳む手が止まった。

「それを口実にしたいだけだろう? 考えたんだろ、身分差のことを。改めて突きつけられたから、身を引こうとおもったんだろう、お前」

「そんな事……」

「あるだろ。奥方から聞いたぞ、翠の親戚の方に色々言われたと。大変ご立腹だった……」

 最後は恐ろしそうに身を竦ませた。

 長年通ってきた仙姫のとこだ。どんな風なのか、容易に想像できて、鈴明は少しだけ笑った。

「あのねぇ、鳶羽兄ぃ」

「なんだ?」

「あたしさ、全然考えてなかったんだ」

 身分の差も、住んでいる世界も違うと言う事を。

「仙姫さんもさ、優しいから気軽に声を掛けてくれるけど、本当なら入れもしないんだよね。でも、あたしはそれを当たり前だと思ってた」

「翠の奥方にとっては当たり前なんだろう?」

「違うよ、図々しくもあたしは、それに甘えてただけなんだ。琉李のだってそう。あいつに刀を向ける事だって、普通だったら私兵の皆さんに斬られてる事なんだよね」

「手合わせだろ? 斬りたいと思ってやる事じゃない。翠の息子に訓練の相手をしてやってるんだ。文句を言われる筋合いはないな」

 誰にも遠慮するということをしない兄の言葉に、鈴明は苦笑した。

 鳶羽らしいといえば、鳶羽らしい。

「そうなんだけどさー、鳶羽兄ぃ。他の人から見たら、やっぱりそうなんだよ。貴族の坊ちゃんに、庶民が刃を向けているって」

「納得いかんな。わざわざ斬られ役を買って出てるんだぞ? 翠の息子は、腕が良いと聞くから、危ない仕事をやってやってるんだ。感謝されることはあっても、蔑まれるいわれは無いと思うぞ?」

 うわぁ、鳶羽兄ぃの頑固節がでたぁ……。

 うん、正論だよ? 正論だから、兄ぃは曲げない。

 あたしも曲げれない……。

「うん、まぁ、貴族方には曲がって見えるんだよ」

「そうだな。貴族の性根は曲がってると聞くからな」

「えっと……。うん、全員そうだとは限んないけど、まぁ、いっか」

 釈然としない気持ちを微量抱えつつ頷いた。

「――鈴明」

「何?」

「無理するなよ」

「え」

 それだけ言い残し、鳶羽は師匠である母――彩鈴の所へ向かっていってしまった。何も修飾することなく。

 呆気にとられたまま兄の姿を見送り、鈴明はため息をついた。

「何で気付くかなぁ……」

 妙な所で鋭い長兄には脱帽だ。

 いや、鳶羽が気付いていると言う事は、さらに鋭い鷹羽はとっくの昔に気付いているかもしれない。

「うわっ、うち中でバレまくり?」

 そんでもって、さらにさらに鋭い両親は、とっくのとっくの昔に気付いていると言う事で……。

 今回鳶羽が言ってきたということは、本格的に自分がやばいか、自分が一番言う事を聞く長兄に任されたという事か。

 たぶん、両方。

「そんなにも顔に出てたかな……」

 ずるずると倒れこむ。

 翠家との商談を自分が受けないと、琉李との接触を絶つと宣言して、半年。

 こんなにも仙姫と会ってないのも、琉李と話していないのも初めてだ。

 けど。

「自分で決めたんだもんね」

 これが普通。

 これが普通なんだと、半年言い聞かせてきた。

 許してくれるとは言ったけど、琉李を斬ったあの嫌な感触は今でも手に残っている。……自分で自分を許せない。

 それに、あたし自身があいつの道を塞ぐなら、身を引くべきだ。例え、あいつ自身がいいと言っても。

 だって、琉李はいずれは国のために働く。そのために塾に行ったりしてる。

「自分で退くって決めたんだよ」

 こんな所で、親戚の人たちと確執を作るべきじゃない。貴族の人たちと作るべきじゃない。

 どんなに胸が押しつぶされそうになっても、あたしの勝手な我侭だ。

 身分の差を無視した勝手な我侭。

「ほら、あたし。何やってんだよ」

 あいつに会いたいと思っても。

 自分で退路を絶ったんだ。

 立ち止まるべきじゃない。

「仕事、仕事」

 沈んでいく気持ちを無理やり引き上げ、顔をパンと叩く。

「鳶羽兄ぃは、職人だよ? 何任せてんだよ、あたし」

 今、無性にあいつの気楽な声が聞きたかった。

 

 

 

 

「どうした? 琉李」

「あぁ? なんでもねーよ」

 剣を弄りながら琉李は目の前の相手へと応えた。

 ちなみに。

 目の前にいる相手は、苑奏悸。この国の青宮――皇太子である。

 が、琉李はぞんざいな言葉遣いだ。

 奏悸も呆れたような顔をしている。

「今は夏水殿だからいいが、外に出たらやめろよ? その言葉遣い」

「知ってるさ。その位の事は弁えてる」

 不貞腐れたように顔を顰め、琉李はまた手入れを始めた。

 奏悸はそれを苦笑と共に眺めている。

「最近、私のところへ来るのが増えたな。……いや、半年前位からか」

 びくりと背中が反応した。

 正直な奴め、と思いながらも、奏悸は続ける。

「素直だな。そんなんじゃ、泥臭い官吏達の中やっていけないぞ」

「うるさいな、親父に嫌と言うほど言われてる」

「で?」

「は?」

「来るのが増えた理由は?」

「お前にはどうでもいいだろ? 皇太子サマが気にするようなことじゃねーよ」

「いや、剣の兄弟子として聞いている」

 琉李と奏悸は兵部の上役に剣を一緒に習った仲で、このように言葉を交わす仲でもあった。

 一緒になって習ってきたためか、どうも琉李に遠慮というものが無くなってしまい、今に至るというわけだ。

 奏悸としても、同年代で、気の置ける友人と言えば、琉李位しかいないので、特にとがめる事も無く、このまま来ていると言うわけだ。

「何だ? あの少女官吏とか?」

「うっ」

 ほら、反応が正直だ。

 仕官したてであるからまだいいが、もっとどっぷりつかってきたらどうなることやら。

 この反応のよさに、多少不安になりながらも、奏悸は続けた。

「喧嘩でもしたのか?」

「お前には関係ないだろ?」

「あぁ、関係ない。……が、興味はある」

 正直に言ってやれば、琉李は、はぁと呆れたようにため息をついた。

 そんでもって、無言の要求を続けていると、諦めたように両手を挙げられた。

「お前のしつこさは分かってるよ……。分かった、話せばいいんだろ」

 ずっと手入れをしていた剣を丁寧にしまい、奏悸の正面にどかっと座った。

 そして、半年前につけた傷を見せた。

「斬られたのか?」

 少々の驚きと共に、奏悸はそう口にした。

 同じように学んできたから分かる。

 琉李は筋があり、腕がたつと。

 その琉李が、真正面から斬られた?

「あぁ、あいつに、な」

「舜鈴明にか? なぜ?」

「手合わせで事故った」

 は? と琉李を凝視した。

 手合わせで事故った? 

 琉李ほどの腕の持ち主が、避け切れないほどの失敗でもおかしたのか?

「うちの阿呆親戚が牽制で弓を引いたんだよ」

「琉李にか?」

「違う。鈴明にだ」

「……なるほど、な」

 了解したように、頷いた。

 それで庇って怪我を負った、か。

 琉李らしいと言えば、琉李らしい。

「それで?」

「絶交。俺を斬ったからとか、身分がどうたらこうたらで、あいつ、俺とはもう逢わないとさ」

 馬鹿馬鹿しいよな。

 そういう琉李だったが、その表情は苦々しそうだった。

「俺は気にしないって言ってんのによー」

「……心情は分かる」

「は?」

「親しい者を斬って恐ろしかったんだろう。それに、生真面目な子そうだったからな」

「生真面目ぇ?」

「性格が、だ。そのまま受け取るような子だろう。商人だから、表情には出さないだろうがな」

 君のほうが良く知ってるんじゃないか? と言えば、そっぽをむいてしまった。

「確かに真に受ける奴だよ、あいつは。馬鹿だよな……」

「それで? 琉李、傷心の君は、私と剣を交わらす事によって発散しようとしていたと言う事か」

「そーだよ。お前もピリピリしてる時期だから丁度いいだろ?」

 現在、奏悸は叔父と帝位争いをしている真っ最中だ。

 普通だったら皇太子である奏悸が帝位に付くのだが、叔父は何とかしてわが手に収めようと、あの手この手と回して、貴族達を囲って仲間を増やしてきている。

 だから、こういう日常の場面でも気が抜けないのだ。

 本来なら。

「親父が手ぇ回して、信頼できる番兵を置いたし、うちの私兵の奴も混じってる。安心できるだろ?」

「あぁ」

 琉李の父である、尚書令は、最も信頼できる部下の一人だ。

 人柄も良く、聡明で、色々と有用な発言をしてくれる、貴重な存在でもある。

 その息子も隣に居て、今この時間帯が、一番息が抜ける時でもあった。

「お前が傷心で助かった」

「俺は助かってねー」

 と、言いながらも、手合わせに付き合ってくれる琉李に、奏悸は密かに感謝した。

 

 

 

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