ずれている事は知っていた。 視る所も、感じる所も、なにもかもが異端だということは分かってた・
だから、選ばれたのかもしれない。 左弁官、佐伯満成の邸。 およそ二町の土地に「五条大宮殿」は建っていた。 無位無官の地下人が見たら圧倒されそうな佇まい。崩れている塀などあるはずもなく、圧倒的な存在感と共にそれは在った。 家主の趣味か、秋の季節の草花を多少多めに、華やかに、けれども煩く見えない絶妙な均衡を保った庭、左弁官の邸にしては小さめの池、そして、それに渡してある橋もやはり華美ではないものの、丁寧な造りで一級品を匂わせる。 寝殿には無論、主人である佐伯光成と正室五条の方、まだ元服と裳儀をしていない姫一人に、息子が二人。東の対屋には元服を済ませた息子二人と、裳儀をすませた姫一人がそれぞれ暮らしており、その反対側には、親戚関係である、神祇官の長の夫妻、息子、娘が暮らしていた。 親戚同士仲も良く、女房同士もいがみ合う事など無い位、双方の関係も良好だ。 ――その東の対屋。 佐伯満成の第一子、和親の部屋にて。 その部屋の主和親と、それより少々年嵩の少女が書物を手に向き合っていた。 和親はすでに元服を済ませており、今は数えで15。 今は勉強をしたいからと、大学寮の文章生になっている少年である。表情は柔らかく、優しそうな雰囲気を持つが、これでいて中々聡明だ。その目は抜け目が無く、その優しげな風貌であっさりと毒を吐く、顔と教養に惹かれて寄ってくる女房達も真っ青な公達だ。 次は参議かと名高い父の後を継ぐべく、全てを吸収しようと目下修行中の身だったりする。 対して、教師らしきことをしている姫。華やかな紅梅匂の小袿を着こなし、うっすらと微笑を浮かべている。香には、贈られたらしい伽羅を使い、上品さを匂わせる。健康的に桜色に色づいた頬に、黒曜石のように煌いた目。伸ばされた髪も艶やかで、もし、彼女を垣間見た貴公子が居たとしたら、恋焦がれるようになるだろう容貌。 なのだが。 「姉様」 「んー?」 「今更だけどさ、几帳とか使わなくていいの? 僕、一応元服してるよ。今年に」 彼女の手には扇も何も握られていなかったし、彼女と和親を隔てる物など何も存在しないのだ。 これは、極めておかしい事だといって良い。何せ、「普通」の姫であるならば、夫以外の元服した男とは、例え肉親であろうと、気安く隔たり無しで対面していいはずがないのだ。 ないのだが、実際、隔たりは何もなく、扇で顔を隠すわけでもなく、彼女は至って平然とした様子で弟と対峙している。 「扇もちながら書を持つなんてめんどくさいじゃない」 「えーと、几帳とかもあると思うけど」 「質問しづらいでしょ? というより、教えにくいわ」 書物から目を離さないまま、彼女は嘯いた。 少し首を傾げると、弟に尋ねた。 「几帳越しの方がいい? 奇妙な光景だけど」 「そんな事は言ってない……」 「そう言う風に聴こえたけど」 「ちょっと疑問に思っただけ!」 少し頬を膨らませ、むきになって和親が言い返した。 「そうね」 身を乗り出し和親の頭に手を乗せる。 「私の事嫌いじゃないもんね」 にっこりと笑う姉を正面に迎え、和親は真っ赤だ。 他の姫方にやられたら、にっこりと笑って嫌味の一つでも言うだろうに、姉の前では形無しだ。 姫はからかう色を少し乗せながら、優しく撫でていたが、ついに我慢ができなくなったのか。場所ごと移動して和親をぎゅーっと、抱きしめはじめた。 驚いた和親が離れようともがくが、姫の細腕からは驚くべき力が発揮されているらしい。全く離れない。 「もー、やっぱり愛い子だわ」 優しく撫でているだけでは足らなくなったのか、少々乱暴になってきた。 その表情は満面の笑みで、楽しんでます! と顔には大文字で書かれている。 「うー、姉様……」 「なぁに、親―」 「……親ってまた」 姉が呼ぶ愛称に子供あつかいされたと感じたようだ。 しかめっつらをするが、姫には届いた様子が微塵にもない。 「しょうがないじゃない。私にとってはまだ子供だもん」 「姉様!」 和親は抗議の声を上げるが、姉姫はめげない、くじけない、離さない。 離れようともがくものの、男女の差とはどこへ言ったのか、びくともしない。それこそ、岩に手を当ててるような感覚。 「苦しいって、姉様」 ついには諦めた様子で、姉を少し叩く。 しぶしぶではあったが、姫は離れ、横にあった書を見て口に手を当てた。 「いけない。まだ三頁しか進んでないわ」 慌てたように自分の席に戻ると、一変、真面目な顔つきにと戻り、少し笑った。 「じゃあ、詩経、国風抄録、北門から暗誦」 「ずいぶんと変わり身が早いね、姉様」 調子付いた和親が意地悪気に笑うが、姫は堪えた様子も無い。 「覆水盆に返らず。落ちていった水の事を考えても仕方が無いわ」 「それって屁理屈じゃ……」 「過去を振り返るほど、私は暇じゃないの。――後で、意味を言ってもらうから、きちんと考えるのよ?」 わかったわね? と念を押す姉。 「……うっ、分かった……」 渋々頷いて承諾すると、彼もまた書へと目を移した。 姫は所々つまりながら暗誦する弟を、楽しそうに見つめていた。 一条帝の御世の頃。 左弁官、佐伯満成の一の姫、霞は、人々、主に貴公子からは霧宮と称され、愛でられていた。 「姫、また来てますわ……」 東対の主人の部屋にて。 うんざり顔の主人と共に、これまたうんざり顔の女房一人が向かいあっていた。 主人の部屋という事もあり、脇息から鏡台まで一級品揃いである。だが、主人が華やかな物が嫌いなのか、飾られている物も落ち着いた色から、黒揃い。所々で明るい色の小物で和らげているものの、あまり若い女君の部屋の雰囲気はしない。 また、粒ぞろいの女房、五人が後ろで控えている。今進み出て話しているのは、その中でも主人の信頼を得ている女房だった。 何やら、主人の機嫌を損ねる出来事が起きたみたいである。 「……今日は何通?」 「ざっと10通で御座います」 「はぁ……。いっそのこと漢詩でも読んでやろうかしら」 決して開かない扇で自らの膝をいらついたように、紅梅匂の小袿を纏う主人――霞は叩いた。 先ほどまで、にこやかな笑みを浮かべて弟に教えていたとは思えない態度ではある。 扇を眉間に当て、恨めしげに女房の手にある文らしきものを見つめる。 「ずっと私からの筆からこないのに、何で諦めないの……」 「続けているのが返って助長しているのかもしれませんわ」 「全部無視するのってどうかしら?」 「それも手で御座いますね」 「でもそうすると、また貴方に手引きを頼む馬鹿がでてくるのよね」 困った、と顔を盛大に顰める主人に、女房は穏やかに微笑んだ。 「わたくしの事は気にしないでくださいませ。姫が寝取られる事のほうが一大事ですから」 「……あっさりと嫌な事言わないで……」 さらにげっそりとなる主人を不思議そうに見つめつつ、女房は主張を変えない。 「でも、重要です」 「私は、春日を寝取られるんじゃないかって心配なのよ」 「霞様を妻にと望んでいる方が? それはございませんでしょう」 「でも、足がかりに春日と仲を持ち、そこを土台として私に取り次ぐというのを考える馬鹿が居ないとはいえないでしょう?」 「……言えないとは申し上げられませんね……」 「杞の国の人みたいな心配ですんだらいいのに」 「姫様、普通に杞憂と仰ってくださいな」 呆れた様子で進言するものの、霞はそんなものは考慮に入れていないみたいだ。 脇息にもたれかかり、はぁと息をつく。 「いいじゃない。春日なら分かってくれるもの」 「わたくしが分かっても、皆が反応しづらいと思いますわ」 後ろに控えている女房達を示して春日が進言する。 四、五人いる女房達は春日の「杞憂」でやっと察したようで、なるほど、と互いに頷きあっている。 それを眺め、霞が一つ零した。 「燕雀安知鴻鵠之志哉」 「霞様」 春日が少々咎めるような声をだす。 けれど、主は、そんなものにたじろぐ人でも、反省する人でも無かった。 いたずらっぽい笑みを浮かべ、少しだけ舌を出す。 「字面通りの意味よ。燕雀の志も鴻鵠は分からないと思うのよ。その反対も然り」 「だから宜しいと?」 「そういう事。察しがいい子は好きよ、春日」 さっきとは違い、含みの無い笑顔で春日を労うと、円座から素早く立ち上がった。 問うような視線に彼女は東の対、彼女の部屋の隣である塗籠を扇で指す。 それで察した女房達は苦笑いだ。 「あの、姫様」 「なにかしら? 周防」 女房の一人である周防が困ったように、霞に進言する。 「あの文の束は如何なさいましょう?」 「保留。料紙だけ容易しておいてくれる?」 「畏まりました」 平身低頭し、しずしずと下がっていく周防を見届け、彼女は春日を一瞥した。 春日は頭を下げると、口を開く。 「承っておりました書物の方はすでに入れております」 「ありがとう。じゃあ、私は塗籠のほうにいるわね」 相変わらず扇を帯に刺しっぱなしで、彼女は自室を出て行った。 「……口が悪うございますよ……」 春日は一つ溜息を零す。 教養高いのは認める。立派な主人だという事も分かってる。彼女の女房だという自負もある。彼女のような主人を持てて誇りに思っている。 思っているが、あの奔放さはどうにかした方がいいんじゃないかと、春日はこの頃頭を悩ませている。 「春日様」 「なんですか?」 少し年下の女房が、女房達が首を傾げて春日を見つめている。 「先ほど姫様が“燕雀安知鴻鵠之志哉”? と仰ってましたけど、あれの意味が分からないんですけど……」 「漢文ですし、分からなくても良いと思いますよ?」 ある意味で馬鹿にされたのだから。彼女はそうじゃないと言っていたけれど。 けれど彼女達には聴こえない。 盲目的に彼女に心酔をしているのだから。 「いえ! 教養高い姫様の女房ですから!」 「春日様教えてくださいませ」 じりじりと近づいてくる彼女達に、降参とばかりに春日は手を挙げた。 「分かりました、教えますよ……」 とたん止まってしまう彼女達に春日は笑いがこぼれそうになった。 欲望に正直というかなんというか。 「燕雀安知鴻鵠之志哉、は、雀が大きい鳥の気持ちなどわかるものか、という唐の国の昔話です。転じて――」 「転じて?」 また一歩進み出た女房に春日も一歩下がった。 「小さきものに――」 「春日! ごめん! ちょっと分からないわ!」 隣の塗籠から主の声がして、春日の声は遮られた。春日も含んだ女房全員が塗籠の方へ注意が向く。 少年という年頃の雑色の一人が、おずおずと顔を出してきて春日の名を呼んだ。 「春日さーん。姫様が塗籠の中身凄いことにしてるので助けてくださいぃ」 「分かりました。姫様にすぐ行くと」 「はい! ありがとうございます!」 そそくさと出て行った雑色の後をゆっくりと春日が辿る。 「さっきの話はまたのち程に」 「はい……」 残念そうな顔をしている女房達に微笑みかけ、春日はまた体をもとに戻す。 ――言えるわけ無い。 燕雀安知鴻鵠之志哉の意味が、「小人物に大人物の志がわかるわけがない」なんていう例えなんて! 彼女はそう言う意味で使っていないと言っていたけれど、本心ではどうおもっているやら。 春日は頭を振り、塗籠の戸を開けた。 「失礼しま……す?」 すでにそこは戦場だった。 巻物が広げられ、書物が大量に積んであり、彼女が使うという料紙もそこら中に散らばっている。 「霞様?」 「あ、ごめん」 慌てたようにソレを巻いてしまった。 春日は疑問には思ったが、自らの仕事を優先することにした。 「孫子、で御座いますね?」 「うん」 「……料紙の下に埋まっていました……」 「あ」 差し出されたのをおずおずと受け取り、罰が悪そうに頬を掻いた。 「ごめんなさい」 「謝らないでくださいませ。わたくしの仕事ですから」 |