手を伸ばしても、届かない。 銘国、翠尚書令邸の中庭の一角にて。 少年と、少年より2、3幼い少女が、模擬戦用の剣を持って対峙していた。 二人とも、だれかに丁寧に教わったのか、型は綺麗にとれており、見ていて見苦しいと言うことはなかった。 傍らに立っていた女性が二人を見て声を上げた。 「いくわよ。始め!」 合図と共に間合いを詰めたのは少年の方。 大きく振りかぶって少女に叩き込む。 その様子を少女は冷静に見つめ、柄を両手で支えた。 「くっ」 「いくよ、お兄ちゃん」 拮抗している剣に、更なる力を加え、少年の剣を押し上げる。 「え」 「まだまだぁ!」 呆然としている少年に容赦なく切りかかる。 金属同士の澄んだ音が鳴り響く。 と、少年の剣が弾き出された。 「うわっ」 「もらった!」 最終的に少女が剣を少年の首元にやり、試合は終了した。 「また負けたぁ〜〜〜〜〜っ! 母上、判定するの速い!」 「遅くないわよ。琉李の反応が遅いだけよ。それにしても鈴明ちゃん、強くなったわねぇー。お兄さん達に教えてもらったの?」 「うんっ。兄ぃ達に教えてもらったの。万が一のことがあったらだめだって」 「あらあら。良いお兄ちゃんねぇ」 「兄ぃ達は凄いよ! たいじゅつも教えてくれるもん」 「……誰か、舜家に文句言って来てよ……」 中庭に面している廊下で座りながら菓子を頬張る、幼子2人と、保護者1名。 少年は琉李と言い、この翠家の一人息子だ。 腕白な感じもするが、頭が良く、五歳辺りから先生を招き勉強を始めていた。 今では、本人の強い希望から塾に入っており、将来的には殿試を受けると豪語している。 が、鈴明に影響され、剣術も習い始めている。けれども、まだまだ勝てないと言うのが現状で、本人はいたく不本意だと憤慨していたりする。 で、この隣の女性が、尚書令の第一夫人、仙姫だ。高いくらいとは言えない官吏の娘だったが、尚書令に見初められ第一夫人に納まっているという凄い人だ。 仙姫は、官吏の娘と言うこともあってか聡明で、博識だ。 さらに、精神的にも強く、婚姻を強く反対し、した後もねちねち言ってきた親戚一同に啖呵を切って見せ、口論となっても見事勝利したという経歴も持つ。 あまりの凄さに、親戚一同も恐れをなし、それ以降表立って言うことは無くなったとか。 そして、その隣でのんびりと菓子を頬張っているのが、向かいにある商店の娘、鈴明だ。 反物屋の娘で、上には三人の兄が居るためか、とてもたくましく育っている6歳だ。 自身が言っていたとおり、護身のためか、良く分からないが、三人の兄達からそれぞれ剣、弓、体術を習っているらしい。 二番目の兄は、官吏を目指し勉強中のため、鈴明もそれにならって、勉強をしていたりする。 良い商人だ、と高名な父に似たのか、幼いながらも色々とできる才子だ。 鈴明の父母も手塩をかけて育てており、そろそろ商売の事についても教えるつもりだと、仙姫に言っていた。 「鈴明ちゃんは、もう反物の事覚えてるの?」 「ううんー。えーと、うちにあったのが千より上だから、百位しか覚えてないよー。まだ、種類も見分けられないんだぁ」 「あら、百も覚えたの? 凄いじゃない。――琉李?」 「な、何?」 「あなた、論語の第一編で泣き言言ってたじゃない?」 「い、言ってない!」 「あーら? そうだったかしら。……出来るわね?」 「出来る!」 「頑張りなさいな」 仙姫はにっこりと微笑むと、先ほどから裾を引っ張っている鈴明に向き直った。 「どうしたの、鈴明ちゃん」 「仙姫さん、ろんごって難しいの?」 「そうねぇー、奥深い事は書いてあるわ。理解しながら覚えるのは大変かしら」 「どんな事が書かれてるのー?」 「琉李、言ってみなさい」 不思議そうな顔をしている鈴明に、仙姫は息子を促した。 やっと良いところを見せれるとばかりに、琉李は頷いた。 「子曰はく、『学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。朋有り遠方より来たる。亦楽しからずや。人知らずして慍みず。亦君子ならずや』と」 「ちゃんと覚えてるわね、偉いわ」 「復習してるからね」 「よしよし」 満足気に仙姫は琉李の頭を撫でた。 一方で鈴明は首を傾げていた。 「あれ?」 「ん? どうしたの?」 「それ、知ってるよ。兄ぃに習った」 「そ、そうなの? 聞いて見ても良い?」 「うん。――子曰く、徳の脩まらざる、学の講ぜられざる、義を聞いて徙るあたわざる、不善の改むるあたわざる、これ吾が憂いなり……だったと思うよ?」 「……琉李」 「……何さ?」 「今のは“述而第七”よね」 「うん」 「負けてるわよ、頑張りなさい」 「分かってるよ! ――鈴明!」 「なぁに?」 「次は負けないからな!」 琉李がこう宣言すると。 きょとん、としていた鈴明はにっこりと笑った。 「あたしも負けないよ、お兄ちゃん」 鈴明6歳、琉李9歳の春だった。 そして、何回か春が通り過ぎた。 鈴明が14歳、琉李が17歳になった時の事。 諱を貰い多少どころか、気恥ずかしかったのだが、相変わらず鈴明は翠邸に遊びに行っていた。 奥方に呼ばれていると言う事も大きかったが、琉李と手合わせがしたいというのも微妙にあったりもした。 と、いうわけで、遊びに行っても行く場所は仙姫の私室であった。 「鈴明ちゃん、持って来てくれた?」 「はい、持って来ましたよー。仙姫さん。仙姫さんに似合いそうなのをたくさん持ってきちゃいました」 大方反物の話なのだが、仙姫は喜んで聞いていた。 琉李を産んだときに無理をしたせいか、体力的に第二子は無理で、子供に女の子が居ないと言う事も関係しているだろうが。 「見せてもらっても良い?」 「いいですよー、どーぞ」 丸めてある反物を軽く広げ、仙姫はうっとりと見入る。 「相変わらず趣味がいいわねぇ。六年間勉強したかいがあるんじゃない? 鈴明ちゃん」 「そうですねー。とりあえず、琉李並みには勉強しましたよ?」 「いやねぇ。鈴明ちゃんの方が頑張ってるわよ。まだ、勉強はしてるんでしょう?」 「えぇ。兄貴が頑張ってますから。次の殿試には出ると意気込んでますよ」 「あら、そうなの? 合格したらうちに来るように手配してあげるわ」 「ありがとうございます、仙姫さん」 ぺこりとお辞儀する様は、すでに6歳の面影を残していなかった。 商人としての心得を父から叩き込まれたお陰であろう。 「じゃあ、仙姫さん。どれが良いですかー?」 「そうねぇ。これかしら」 仙姫が選んだのは、水辺で翡翠が飛んでいる様子を描いてある反物。 素材は絹であり、夏物としてはぴったりの反物だ。 「あ、やっぱりこれですか?」 嬉しげに反物を上げる鈴明。 「もしかして、ばれてたかしら?」 「いえ、そういう事じゃないんですけど、仙姫さんに一番合うのはこれかなぁ、と密かに思ってたんですよー」 くるくると反物を巻き上げながら鈴明は笑った。 「思ってるだけじゃなくて、言ってくれてもよかったのに」 「いえ、お客様の好みが第一ですので」 「言うようになったわねぇ」 「あはは」 幼いころのようによしよしと頭を撫でてあげると、同じように嬉しそうに頬を緩めていた。 こういう所は相変わらずだ。 「仕立てはどうしますかー?」 「そうねぇ、頼んでもいいかしら?」 「はい、鷲羽兄ぃがやってくれますっ。兄ぃは、仕立てに関しては天才ですよ!」 「鷲羽くんねぇ、あの腕白だった子がそんなにも上手になってるの? そうね、確認のためにやってもらおうかしら。この柄だったら、職人の腕の見せ所でしょうし」 「じゃあ、鷲羽兄ぃに言っておきますね」 「頼んだわ」 仙姫はそういうと、近くにあった鈴を鳴らし侍女を呼んだ。 鈴明が片付けているうちに侍女はやって来て、お菓子とお茶を置いていった。 「鈴明ちゃん」 「はい?」 「片付け終わったら、お茶にしましょ」 「やったー! すぐ終わらせますね〜」 お菓子という言葉につられて目を輝かせるのも相変わらず。 微笑と共に眺めていると、言葉通り素早く片付けてしまい、鈴明は茶器へと手を伸ばした。 「あら、鈴明ちゃんが淹れてくれるの?」 「鴛羽兄ぃに教えてもらったんですよー」 「甘味処の主人よね。頂くわね」 上品な手つきで口に運ぶ仙姫。 豪快に飲む鈴明。 ……ここでどう言う暮らしをしているのかが丸分かりだ。 「うん、合格ね」 「ありがとうございます。ここのお茶の葉が良いからですよー」 「お茶の葉が良くても淹れ方がまずいと、おいしくならないわ」 美味しそうに飲む仙姫だったが、庭のほうを見て、急に顔をしかめた。 「どうしました?」 「……うーん、親戚連中が着たみたいだわ。巽李、大丈夫かしら?」 「外しましょうか?」 「良いわよ、別に。あんな連中、さっさと追い返すから、鈴明ちゃんは気にしなくて良いわ」 「そういう物なんですねー」 「そういうことよ。――それにしても、勤勉ねー、鈴明ちゃん。お茶の淹れ方まで習って。うちの馬鹿は、郷試が終わったからってふらふらしてるのよ? 鈴明ちゃんを見習ってほしいわ」 「……悪うございましたね、母上」 背中から声変わり前の少年の声がした。 後ろを振り向けば簡素な服を纏った琉李が、むすっとした顔で立っていた。 「俺は、一週間前に合格したばかりですよ? 少しくらい息抜きしても良いじゃないですか」 「あら、帰ってたの? ……でもねぇ、鈴明ちゃんのとこの鷹羽くんは、もう殿試の対策に入ってるらしいわよ」 「……鷹羽さんと比べないでくださいよ。あの人は、俺より3年早く挙人になったんですよ。やり始めは俺の方が早かったのに……っ」 「貴方のほうが覚えが悪かったのね」 「……もう良いです」 琉李はため息ひとつ付くと、鈴明にむかってにかっと笑った。 「よう、久しぶり。お転婆」 「久しぶり、放蕩御曹司」 「何だよ、その無駄に仰々しい名前」 「褒めてないわよ」 「だれがそんな事言った」 ぺしっと鈴明の頭を叩くと、琉李は頬を母親から抓られた。 「っててててて!!」 「鈴明ちゃんに何てことするのっ。放蕩してるのは本当なんだからそんな事はしないの!」 「いひゃい! ひゃめてふらはい!」 「しょーがないわね。今日は許してあげようかしら」 仙姫がぱっと手を離すと、琉李は蹲って頬を押さえる。 「ぜってぇ可笑しい。なんで息子の方がいじめられる!? 普通反対だろ……」 「だって、私、鈴明ちゃんと仲良いもの。友達よ、友達」 「ず、随分と歳の離れた……、ご、ごめんなさいっ、う、嘘です!」 「……よろしい」 「仲がよろしいですね」 鈴明が楽しいそうに言うと、琉李がとても怪訝そうな顔をした。 「どこが?」 「だって、仙姫さん、とても楽しそうだから」 「そりゃあ、俺をいじってて楽しいからだろ!」 「良く分かってるじゃない」 「だぁあ! くそっ」 完全に遊ばれている琉李である。 ひときしり悔しがると、びっ、と鈴明を指差した。 「鈴明!」 「何?」 「久しぶりに、手合わせしないか?」 にやりと笑って申しだされた事に鈴明は。 「受けてたってやろうじゃない。――仙姫さん、判定お願いしても良いですか?」 「いいわよ。丁度、親戚連中とどうやって会わないようにしようか考えてたところだもの」 「そ、そうですか……。お願いします」 「えぇ」 三人は中庭へと降りていった。 「じゃあ、あたし、刀使うね」 鈴明が取り出したのは細身の刀。 いつも護身用として持たされている、鈴明愛用の得物だ。 「へぇ、そんな弱弱しいのでいいのか?」 対する琉李の得物は、大柄な剣。 年々大きくなってきている体にあわせて大きくしている、翠の御用達の鍛冶屋から仕入れてある業物だ。 「うん。あたしの得物はこれだもん」 「折れないように注意しろよ?」 「琉李こそ、弾き飛ばされないようにね」 「されるかっつーの」 「どうだろうねぇ」 お互い軽口を叩きながら、得物を触れさせ、所定の位置についた。 「生身の剣だから気をつけなさいよ。取り落としたほうが負け。よーい、始め!」 先手必勝とばかりに、あの時の同じように、琉李が鈴明に切りかかる。 鈴明は刃を斜めにし、受け止めた。 速めに見切ると、引き抜き、一歩下がる。 「やるな」 「そっちこそ」 琉李が力とするならば、鈴明は速さ。 力で押してくる相手に対し、速さで翻弄し、降伏へと追い詰める。 「いきますっ」 一言、つぶやき、踏み込んだ。 一閃。 銀色の残像が煌く。 無駄な力をいれず、自然体で振りぬく。 琉李も速さに翻弄されつつある。 刀が下へ押しとどめられた。 弾き飛びそうになる。 が、握りなおし、流れに逆らわず動かし、自分のほうへと引き寄せた。 また、力強い斬撃が始まった。 正面からは受け止めず、流しながらも必死に受け止める。 ほぼ互角の戦い。 仙姫も楽しげに眺めている。 と。 鈴明が剣撃を受け止めきれず、一歩下がった時、琉李の意識が一瞬逸れた。 好機! とばかりに、鈴明が飛び出す。 ……飛び出してしまった。 鈴明だって、この一撃が琉李にとって致命的になるなんて事は考えていない。 ただ、情勢がこちらに傾くという事だけだ。 それだけだったはずだ。 間合いをつめ、得意の速さで切りかかる。 これでも、受け止められるから、何通りも次の返し方を考えた。 けど。 「な、何でっ!」 「……っ、伏せろ!」 切りかかれたまま、彼は強引に鈴明を押し倒した。 苦痛に顔が歪む中、見れば、先ほど鈴明が居た場所に矢が刺さっていた。 「――! 曲者よ! 番兵、巽李を呼んで来なさいっ。あと薬師もっ!」 「はっ」 仙姫はすでに動いていた。 この屋敷の女主人として、番兵に的確に指示をだし、弓をかけた者を探すように命令した。 「仙姫さんっ。あ、あたし……」 動揺と混乱とでぐちゃぐちゃになった鈴明に、にっこりと笑ってみせる。 「大丈夫よ、鈴明ちゃん。貴方が仕掛けたんじゃないって分かってるから。琉李は鈴明ちゃんを守ったのだから、そんな顔しないで」 と、落ち着いた様子で、鈴明をなだめる。 「でも、あたしっ。り、琉李を、斬っちゃったぁ……」 膝の上に頭をのせた琉李の顔に、抑えきれなくなった涙がぽたぽたと落ちる。 あたしが、あたしが斬った。 琉李はあたしを守ろうとしてくれたのにっ。 避けることも出来たろうに、それすらも省いてあたしを庇った。 「そんな、顔……、すんなよ、鈴明。俺が、しくっただけ、だ」 「で、でも!」 血にぬれた刀がそばに転がっている。 琉李の、血だ。 あたしのせいで、流れた、血。 もう、何も考えられなくて、立つ気力もなく、ただただ薬師を待っていた。 すると、足音が聞こえた。 薬師かと思い、視線を向けると、違った。あんな煌びやかな衣を着た薬師などいない。たぶん、貴族だ。仙姫が言っていた親戚の人だろうか? 「どうか、されたか?」 「……何かようかしら?」 仙姫が、二人を庇うように前へ出た。 男は、媚びへつらうように頭を下げる。 「おぉ、これはこれは、奥方。こちらが騒がしかったもので」 「それはお騒がせしたわね。ここは私が指揮しているから大丈夫よ」 「そうですか。――! 坊ちゃん! 如何なされた!」 仙姫は軽く舌打ちした。 「……少し不注意で怪我を負ったの。薬師を呼んでいるから、あなたが心配しなくても結構よ」 しかし、男は興奮気味で聞いた様子が無い。 「こんな切り傷を負われて! ……? これは、女物の刀?」 鈴明は視線が定まっておらず、何も聞いていない。 その様子を見て取ったのか、男はいきなり叫びだした。 「こいつ、坊ちゃんを斬ったのか! 女の身の癖して、一人前に刀を持ったのか、馬鹿馬鹿しい」 「工部主事!」 加熱した男はとまらない。 「お前、見た事あるぞ。商人の癖して図々しくも、坊ちゃんに取り入っていたものだな?」 「……」 鈴明は、しゃべらない。 俯いたままだ。 「もう、坊ちゃんには近づくな! 身分を弁えろ」 「……はい」 全てを、流しきった様子で、鈴明は立った。 琉李の頭を優しく地において。 「鈴明……」 「いいよ、琉李。あたしが全部悪い。……何にも分かってなかったね、あたし」 「違うっ」 「自分が商人だと言う事、抜け落ちてたよ。ごめんね」 「違う、違うんだ!」 「助けてくれてありがと、琉李。ううん、翠琉李様」 寂しげに微笑んで、鈴明は一礼した。 「仙姫さん、いえ、仙姫様、ごめんなさい、失礼致します」 「鈴明ちゃん……っ」 鈴明は、振り向かず、去っていった。 血塗れの刀が一本、寂しげに刺さっていた。 「違う、違うんだよ、鈴明……!」 琉李の顔は泣きそうであった。 「せっかく、せっかく――」 最後に呟いた言葉は、誰も拾う事がなかった。 ―― 一週間後。 翠家に、来客があった。 鈴明だ。 色とりどりの花と共に、仕上がった衣を手にして参上した。 「おい、お前、また来たのか!」 「失礼。自分は今、仕事中です。私事に何があろうとも、商人として命じられた仕事はこなすだけです。――仙姫様に衣を届けに参ったのです。通してください」 凛、とした様子で、男に言い放ち、そのまま横を通っていった。 男は呆然とした面持ちだったが、すぐに切り替え、巽李の私室へと歩いていった。 一方の鈴明は淡々とした面持ちで、仙姫の私室の前へと足を動かす。 ……正直、怖かった。 一人息子である琉李を傷つけたのだ。 罰を受ける覚悟ならあるが、それよりも。 仙姫自身に嫌われてないかどうか。 自分勝手な感情だが、それだけが心配だった。 嫌われても仕方が無いことをしたけれど。 鈴明は、一つ息をし、戸を軽く叩いた。 「はーい?」 「仙姫様、鈴明です」 「あ、鈴明ちゃん? 入って良いわよ」 思って見ないほど、明るい声。 嫌われて無ければ……、と思ったけれど、これは予想外に明るい。 首を捻りながら、戸を開けた。 「失礼します」 「あ、どうぞー。ほら、鈴明ちゃん、座って座って。お菓子もあるわよ」 な、なんか、いつも通り過ぎる……。 さらに首を捻る鈴明である。 「あら、あの衣できたの! 見せてくれる? 鈴明ちゃん」 「はい、どうぞ」 丁寧に畳んである衣を、これまた丁寧に広げてみせる。 長兄がやった、自信作。 反応は……。 「きゃああーっ、滅茶苦茶いいわ! 想像以上! 鴛羽君すごいじゃない! 天才よ、天才。いつの間にこんな技術身に付けたの。今度から、絶対鴛羽君に任せるわ!」 「あ、ありがとうございます」 想像以上に喜んでくれた。 これは、鴛兄ぃに報告しなければっ! ……有頂天になって、父さんに叱られる可能性大だけど。 と、鈴明は首をぶんぶんと振った。 ここに来た本来の目的を忘れていた。 衣を届けに来たのは名目だ。 ここにきたのは。 「仙姫様」 「なぁに、鈴明ちゃん。それに、様じゃなくていいのよ?」 「申し訳ありません」 額を床につける。 これだけじゃ物足りないけど、今は謝るしか方法が分からない。 「琉李……様を傷つけたのは、完全に自分の責任です。身の程知らずで、本当に申し訳ありませんでした」 額に跡が残るくらい、擦り付ける。 それしか、出来る事がない。分からない。 と、上から声がした。 「鈴明ちゃん」 「……はい」 「顔を上げてくれないかしら。……あの事なら、私のほうからも謝らなくちゃいけないの」 「え?」 思わず、顔を上げてしまった。 なぜ、仙姫さんが、謝る? 何で? 「あの日、弓矢が鈴明ちゃんの方向にあったでしょう?」 「え、えぇ」 それを、琉李が。 「そういう目的だったらしいわ」 「え?」 「琉李にあなたを庇わせて、罪悪感を沸かせ、二人を離すというね」 「そんな」 「馬鹿らしいけど、そういう事らしいわよ。私が自ら吐かせたわ」 そ、それは、恐ろしい。 「ごめんね、鈴明ちゃん。謝らなくちゃいけないのは、こっちの方だわ」 「で、でも、仙姫様は関係ないんじゃ……」 「関係あるわ。いくら馬鹿親戚だからといっても、翠の一門よ。私の責任と言っても差し支えないわ」 「親戚の方が?」 「えぇ。まだ、泳がしてあるけど、すぐにつぶしに行ってあげるわ」 め、目が怖いです! 「だからね、鈴明ちゃん。そんなに責任を感じないで、ね」 ……仙姫様は、怒ってない。 それどころか、あたしの弁明までしてくれる。 とっても、優しい方。 でも。 それでも、あたしが、あいつを斬ったという事実は、消せない。 「仙姫様。……いいんです。これは、自分の責任です」 「鈴明ちゃん……」 「一生背負っていかなくちゃいけない、責任。大丈夫です、自分なりにけじめをつけますから」 「けじめ?」 「えぇ。決めてきた事があるんです」 責任をとるために。 とっても悲しくて、嫌なことだけど。 「琉李……様にとって、一番ためになることです」 仙姫様が、はっとしたように、あたしを見た。 「もしかして、鈴明ちゃんっ……」 「大丈夫です」 上手く、笑えただろうか。 引きつった笑みになったかも知れない。 そんな事を思いながら、あたしは仙姫さんに一礼した。 「失礼します」 一番奥に位置する琉李の部屋の前に鈴明は立った。 軽く、緊張している。 仙姫の時よりも、ずっと。 琉李に怒鳴られても、殴られても、何されても、あたしは甘んじて受け止めよう。 そう決心して、同じように戸を叩いた。 「へーい?」 「鈴明です」 「入って良いぞー」 結構元気そうな声がした。 少しだけ安心して、鈴明は戸をあけた。 「失礼します」 「……何か変なもん食った?」 あんまりだ、といえば、あんまりだという琉李の言葉を軽く流し、鈴明は尋ねた。 「ご機嫌如何ですか?」 「別に、たいした事はないぜ。普通に回復してるし」 「熱っぽそうですが?」 「あー、微熱程度だよ」 本人の言うとおり、口調ははっきりしているから、本当にそうなのだろう。 とりあえず、安心して、鈴明は一息ついた。 そして、持ってきた花を、琉李の寝台の横に置いてある花瓶に整えながら入れた。 「あのさ」 「何か?」 琉李は、首筋をぽりぽりと掻いて言った。 「敬語、やめてくんない?」 「……ですが」 「15年この調子でやってきたのに、いきなりやられると息がつまって仕方が無いんだよ」 「自分が無礼だったからです」 「だあー! くそっ。気持ち悪いったら、ありゃあしねぇ! さっさと戻れ、戻りやがれ!」 「びょ、怪我人が、そう騒いだらっ」 「なら、戻れよー。怪我人の頼みごと位、聞いてくれよ」 なぁ、頼むから。 と、途方にくれたように見られる。 ……しょうがない、か。 「分かったよ。だから、静かにして」 「よっし、戻ったー。……あぁ、気持ち悪かった……」 何か、とてつもなく失礼な事を言われたような気がするのだが。 鈴明は、嬉しいのか、嬉しくないのか、微妙な気持ちになった。 「で、本当に大丈夫なわけ?」 「おう。良い薬師が来てくれて、もう塞がったって言ってもいいくらいだぜ?」 「良かった……」 泣きそうな顔で、安堵する鈴明に、琉李はぽんぽんと頭を軽く叩く。 「母上に聞いたかもしれないけどさ、お前は全然悪くないんだぜ?」 「どこが? どこに、あたしが悪くない点がある? あんたを斬ったのはあたし。これは紛れも無い事実でしょ?」 「あのなぁー。俺がこうなったのは、直前まで気づかなかった、俺自身の失敗だぜ? つか、うちの親戚が悪いんだろ」 「……でもね、琉李。そんな事いったら、あたし自身の失敗でもあるよ。刺客なんて全然気付かなかった。そのせいで、あたしは……」 あんたを斬った。 再び俯く鈴明。 こんな事なら、刀なんて持っていかなければ良かった。 そうしたら、こうやって琉李が倒れる事もなかったのに。 「琉李」 「ん?」 「ごめんね。本当に、ごめん。本当は、こうやって口を聞けてるのも奇跡なのに、刃を向けちゃってごめんね。あの親戚の方の言うとお…… 「鈴明」 強い口調で琉李が遮った。 少々、怒ってるようにも聞こえる。 「お前は悪くないんだ。だから……、そうやって、身分の事言うのはやめろ。これまで付き合ってきた仲だろ? 急に言われると、寂しいだろ」 ほら、こうやって、庇ってくれる。 本来なら口も聞けない相手。 姿を見るだけで満足しなければならない相手。 あぁやって、手合わせなんて出来る身分でもないんだ。 だけど、こうやって。 「身分なんてしらねーよ。お前は、俺の幼馴染だろ? 一番仲のいい」 優しい言葉をくれる。 いつも、いつも。 こうやって覆い隠してくれた。 本当は、手を届かない距離であると言う事を。 だからね、琉李。 あたしは、決めたんだ。 こうやって、あんたがあたしに気を使わなくても良いように。 手が届かない位置にいるあたしに、気を煩わせないように。 琉李。 あんたは、もっと上に行く存在。 この国のために動いていく、ただの商人であるあたしにとっては、遠すぎる存在。 あたしなんかに気を使わせちゃいけない。 こんな罪人に何かに、気を使わせちゃいけないんだ。 だから、あたしは。 身を引くよ。 「? どうしたんだ。鈴明」 急に一歩下がった鈴明に対して、訝しげに首をかしげた。 鈴明はそのまま琉李に跪いた。 「何の、真似?」 「――今迄の数々の無礼お許しくださいませ、翠琉李様」 「?」 「貴方と対等に口を聞いたこと、拳を刀を向けたこと、殴りつけたこと、上げだしたらきりがございませんが、一介の商人として出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした」 「いきなり、どうしたんだよっ」 「……今回の件、翠のご子息に刃を向け、傷つけた事。これは重罪です。許される事ではありません」 「だから、それは、お前が悪くないって」 「と、奥様も旦那様も、琉李様も温情を示してくださいました。本来なら重罪のところを、ありがたいことです」 「当たり前だろ……」 「ですが、これでは、示しが付きませんね」 「え」 琉李が驚いた顔をしている。 鈴明は、微笑んだ。 「本日付で、舜鈴明は、翠のお屋敷に入る事を自主規制致します。ならびに、翠の皆々様にご迷惑をかけたこともございますので、今後一切、自分は翠の商談は受けず、代わりに兄へと委託致します。そして――」 これで、最後だ。 最後の、誓約。 「翠琉李様。貴方へと行った悪行は数えきれません」 「だろう、な」 「ですから。――今後、琉李様との接触を一切禁じます。今まで、ご迷惑をかけました。失礼しますっ」 「鈴明!」 腕を、捕まれた。 「どういう、ことだよ」 「言った通りよ」 思わず素に戻ってしまった。 本音をいうには、これが一番良い。 「これ以上、あんたに迷惑は掛けれない。今回の事も、あたしが、あんたに近づかなければ起こらなかった事。言ってみれば、あたしが目障りなのよ」 「だからって、お前が、お前が接触を絶つ必要ないだろ?」 「あるよ、琉李」 捕まれた手に、手を重ねる。 「あたしなんかに構ってたら、貴族の皆さんから蔑まれるよ」 「俺は構わない」 「あんたはいいかもしれないけど、あたしは耐えれないよ。あたしのせいで、そうなるなんて」 だからね。 「さようなら、琉李」 「り……、華琳!」 思いがけず呼ばれた諱に、泣きそうになる。 けど、泣かないよ。 あんたのためだもの。 「琉李、諱、嬉しかったよ。ありがとう」 「行くな、止めろ、華琳っ」
伸ばした手は、届かず。 鈴明は戸の外へと消えていった。 「坊ちゃん? 入りますよ」 巽李への挨拶を終えた男は、琉李の部屋へと入った。 男は首をかしげた。 こんなにもこの男は静かな性質だったか、と。 怪我のせいかもしれないが、覇気がなく、何となく沈んだ様子だ。 「どうかしたのか?」 「いえ、挨拶に」 「そうか」 それだけで押し黙ってしまった。 本当に、おかしい。 何とかして話題を探そうと思うと、さっきすれ違った女を思い出した。 「坊ちゃん、やっと決心してくれたんですね」 「何が?」 「あの女と縁を切る」 今まで再三言ってきた事。 あの下女同然の女と縁を切ること。 琉李は顔をこちらに向けてきた。 「何だって?」 「え? だって、あの女泣いてましたよ? やっと坊ちゃんがずばっといってくれたのかと、私は安心しましたよ」 「……泣いていて……」 「えぇ、未練深い、嫌な女ですよ。ねぇ、ぼっちゃ――」 それ以上は言葉に出来なかった。 けが人とは思えない速さで、男の隣に拳が通る。 ひくっと喉がなる。 「あいつの事を、悪くいうな」 「で、でも、あんな女、そこらじゅうに、掃くほど居ますよ。坊ちゃんなら、もっと高貴な」 「要らない」 「え?」 「要らないって言ってる」 信じられない。 この男は、器量よしで淑やかで、身分の高い、貴族の娘が要らないと言うのか? 「俺が欲しいのは、あいつだけ。唯一人だ」 あ、あんな、汚らしい女が!? 「ぼ、坊ちゃん! あんな女は、いけません! 汚らしい商人の娘で、坊ちゃんを傷つけた人ですよ!?」 「へぇ」 琉李は冷笑を浮かべた。 いつも鈴明に対して向ける、人懐っこい笑みの反対の笑み。 「な、何ですか?」 「その理由で、鈴明に弓を向けさせたんだな。翠工部主事」 「何をおっしゃるんですか!」 「知ってるんだよ、俺らは。刺客は吐いたぜ。母上が吐かせたんだから、嘘は言ってない」 母上は鈴明の事気にっていたからな、と嘯く。 これは、不味い。 もしかしたら、自分は、この家の地雷を踏んでしまったのかもしれない。 「翠工部主事。親父は、全部知っている。次の異動は楽しみにしとけよ?」 「は、はい」 男は逃げる様にして、琉李の私室から出て行く。 それを冷めた目で見、琉李は転がった。 鈴明が座っていた寝台の隅には、まだ、ほんの少しだけ温もりが残っていた。 「他は、何にも要らない」 貴族の娘じゃなくてもいい。 器量よしじゃなくてもいい。 ただただ、あいつが良かった。 いつも、笑顔で笑ってくれている、あいつが欲しかった。 隣に居てくれるだけでよかった。 お淑やかなんて無縁だったけれど、あいつが、あいつが隣で笑ってくれる、それだけで満足できた。 それなのに。 「くそっ……」 15年間。 ちっさいころから、ずっと居てくれた幼馴染は。 ずっと好きだった、相手は。 悲しげに笑って、自分から遠ざかってしまった。 自分の身内のせいで。 「何で、華琳」 せっかく、せっかく、諱を送れたのに。 万の思いを込めて送ったのに。 離さない。 そう思って送ったはずが。 引き離された。 傍らには、鈴明が送ってくれた鮮やかな花が咲き誇っている。 その明るさが鈴明を思い出させて。 8年ぶり位に、涙が流れた。 もう、手を伸ばしても届かない。 君と俺の距離。 |